4.



 テガミバチの目的は配達の遂行であり、その手紙の背後について深入りする必要はない。
 それはBEEであれば誰もが心して行動すべき事柄だった。

 では、これまでの自分は『手紙』というものをどう捉えて仕事と向き合ってきたのだろう。

 今まで関わったものは、早急な要件が記された内容を運ぶ手紙が殆どだったことから、大抵の場合届け先には受取人がいた。笑顔であれ、BEEへ向ける不信な視線であれ、送付先で待っている宛名の本人と会わずに帰ることは稀だった。



 この日漸くペッパーが自宅へ帰りついたのは、夕食の時間をとっくに越えた頃だった。鉄の馬をフラットの横に置き、上空から舞い降りてきたディンゴの鷹を片腕で受け止め、肩に乗せかえると、鞄を抱えて入り口へ向かった。だがそこで佇む人影に気づかされ思わず足を止める。
「……館長!?」
「やあ、待ってたよ。……ところでどうしたんだい、その格好は」
 ラルゴ・ロイドがそう問いかけても、ペッパーははじめ憮然としていた。
 BEEのトレードマークである大きな鞄は無事だったものの、ペッパー本人は帽子やマフラーさえもずぶ濡れだ。
「渓谷を通った時現れた鎧虫にやられた。思い切り跳ねられ水飛沫を被った。……真水ならとっくに乾いてるはずなんだ。……ジェルのようにへばりついて取れない」
 見れば、いつもは柔らかく綿毛のように散っている青年の栗色の髪も、今夜はぺたりと首筋や額に張り付いていた。当人はしかめっ面をして、どうみても居心地が悪そうだ。
「話は後でいいから、とりあえずシャワーを浴びておいで」
 そう言うと肩を抱き寄せ、ロイドは素早くペッパーのポケットから鍵を抜き取ると、勝手にドアを開け一緒に中へ入った。一連の流れにペッパーは唖然としていた。確かにここは数年前、ロイド自らが斡旋した部屋だったが、入居時以来一度も現れたことなどなかったのだ。
 ペッパーは不思議に思いながらも、言われるままバスルームに向かう。帰途につくまでの間ずっとこの濡れた感触に付きまとわれて随分嫌な気持ちだった。さっさと洗い流してしまいたい。バスに湯を張らず、温度が上がらないままのシャワーのみで身体を洗った。全身に被った液体のせいで泡立ちが悪かったが、給湯の温度が徐々に高くなり、湯気立つお湯を使って石鹸を繰り返し泡立てているうちにどうにか汚れは落ちた。
 脱衣所でざっと水滴を拭き取ると部屋着に着替え、首にかけたタオルで頭を擦りながら居間へ戻ると、ロイドは年代物の暖炉の横に置かれたソファに座っていた。オレンジの炎を上げて焚き木が爆ぜる音が、静かに部屋を満たしている。
「こっちへおいで、早く乾かしたほうがいい」
 ぼうっと佇んだままだった青年にかけられた声はいつもと変わらなかった。ペッパーは一瞬躊躇った自分を内心笑った。自分の家に帰ってきたのに、寛ぐことができないなんて奇妙なことだと考えながら、言葉もなくロイドの隣に腰掛け、簡単に頭の水分を拭った。
「そんなやり方じゃ髪が傷んでしまうよ」
 こちらにかけられた声と、後頭部へ伸ばされた指先の感触はほぼ同時だった。タオルの主導権を譲り渡すことになり、ペッパーは両手を膝に落として頭を横へ向けたまま俯くしかなかった。ロイドの手のひらの感触が、タオル生地ごしに心地よく頭皮と髪を撫でていく。優しい仕草にほだされ、ペッパーはすぐに降参せずにはいられなかった。無意識に張り詰めていた肩の力を抜き、目を閉じたあと、自然に長く息を吐いた。
「……随分疲れてるようだね」
 頭全体を暫く包み込んでいた手は、少し経つと青年の両肩へと移動した。軽く筋肉を揉む指先の動きにほぐされ、首筋からじんわりと温まっていく。素直にこくりとペッパーは頷いた。
「……配達はできた。しかし受取人は本人じゃなかった。……俺が頼まれたのはある女の母親へ宛てて書かれた手紙だったが、その女の母親は俺が着く少し前に死んでいた」
「……」
「母親を看取った家族のひとりが、渡したその場で封を破り、読み上げたんだ、声に出して。彼女は母親のことを恨んでいたようだから、手紙の内容は酷いものかと思っていたら、中にあったのはたった一言、アイラブユー、それだけだった。……そんな短い言葉を、でもきっと母親はずっと待ち続けていたはずなんだ。……なのに俺は彼女らに残された時間内に届けてやることが出来なかった」
 青年の言葉には後悔が滲んでいた。
 取り返しの付かないミスだった。あの時誘いに乗らなければ、もしかしてまだ間に合ったかもしれない。それともやはり間に合わなかったのかもしれない。今となってみては仮定でしかなかったが、最善の方法を取れなかったことは、この先一生悔いとして残り続けるだろう。
「そういうタイミングも、世の中にはあるだろう。理不尽に感じるかもしれないけれど、間に合わない事柄なんて、この先いくらでも起こりうる。たまたまきみがその中の一つに遭遇したというだけだ」
 青年は力なく首を振った。
「……いいか悪いかは別として、きっと彼女の母親は不安と期待混じりで手紙を待っていた。母親は手紙を読む権利があった。俺はそれを永遠に剥奪してしまったんだ」
 ロイドは青年の首筋や肩をゆっくりさすった。
「ひとの生死に関わることで、失態を犯してしまった自分を不運だと思ったのかい? でも、悪い運なんて言い訳にしかならないんだよ。その女性の最後に間に合わなかったきみが、過去に戻って手紙を無事本人へ届けられるなんてことは、この星の引力が逆さにならない限り起こらない。つまり、過ぎてしまった事実はどれだけ後悔したってやり直しようがないんだ。……今は悔しくても、その気持を全て胸に収めて明日も今日までと変わらず手紙を運んでいく、それがきみたちBEEの使命だ。……これで納得できるかい、ジギー?」
 ロイドの言葉はその通りで、反論する余地などなかった。ペッパーは頷きつつも、瞳を見返すことが出来ずに背を丸くした。
「……あんたにとっては、俺はいつまでたっても未熟なヨダカの悪ガキなんだろうな」
 ぼそりと呟くと鼻で笑われた。
「出会った頃のきみはすごかった。ペッパー・スワンダム界隈のリーダーだったきみは、たくさんの大人相手に大立ち回りして、顔も体も傷だらけにして。それでも仲間の皆を守りぬくことだけはけして諦めなかった。BEEにおあつらえ向きな、なんて『こころ』の強い子なんだと、大興奮したんだ。当時一目見ただけの僕でさえこうなんだから、あの街にはきっと今も、きみのファンがたくさんいるよ」
 ペッパーはいたたまれない気持ちになった。
「もう俺のことなんて誰も覚えていない」
「そうだ、今後きみがキリエに行くことがあったら、僕も一緒についていくよ。きみを見て驚く街の人々を眺めるためにね」
「……驚く?」
「多分きみの存在はあの街で、人々の羨望と憧れの的になってるよ。酷い言葉できみをけなすひとがいたとしても、それはBEEになって、誰にも奪うことのできない力を手に入れたきみを羨ましく感じるからさ。……きみはBEEとしてもう、たくさんのものを手に入れた。……特に子供達はきみを見て思うだろう。ヨダカ出身であっても強い心を身につければ、いつか必ず橋を渡ることができる、そんな未来が選べるのだと。……きみは彼らの、希望の星になったのだから」  
「……俺が、あいつらの……」
「ああ、そうだよ。……大変名誉なことだと思うね。でも、常に皆の心を引っ張っていくための指標ともなれば……そんなきみに、いちいち後ろを振り返ってる暇なんかないと思わないかい?」
 苦しければ忘れろとロイドは言っているのだ。その強引な優しさに、かつて何度となくペッパーは救われていた。大きな揺りかごに似た彼の両手の中で、あやされ揺すられているような気分を味わううちに、安堵が全身を満たした。
「……もうあんな失敗はしない」
 声に出して呟くと、言葉の力が増した気がした。常に背中を押されていると感じる理由はすぐ傍にあった。彼が望む限り、自分の生きる意味はある。それがたったひとつ、自分にとっての理想である限り、項垂れ続けることなど許されない。心を弱くすることは、同時にこの地位を失うことでもある。ロイドの瞳に未来の自分を映してもらうには、これから先、今以上に成長しなければならない。そう強く思った。
「……それでいいよ。……ところで」
 口調の微細な変化に、ふと目を上げた。ソファの隣にいた男が、拭きとった水分と共にそっとタオルをペッパーの両肩から外した。
 ほぼ同時に互いを視界に捉える。銀砂の瞳は薄暗い部屋の中で鋭く光った。
「きみは」
 ロイドが触れてきた感触にびくりと青年は身を竦めた。唐突に、首筋を冷えた指先で撫でられ、言葉を失う。
「いつの間に、僕の知らない誰かの所有物になったんだい?」 
「……え……」
 シャワーを浴びたペッパーの体温とは全く違う感触が青年の喉仏を辿った。
「ここに、口づけられた痕が残ってる」
 硬直した青年は徐々にその意味を理解した。あ、と声にならない音を上げ、首から上を真っ赤に染めながらぎくしゃくと視線を外そうとする。
「ち、違う」
「何が? こんなにはっきりと痣をつけられて、きみのことを欲した証拠を残されたのに、覚えがないわけがない」
「……違う……っ」
「……他には?」
 短く尋ねられ、何のことか思いつけずにいると、着ていたシャツに手が伸ばされた。
「……館長っ……」
 ボタンを外され、前を開く手の動きに、ペッパーは混乱した。一度は逃げた目の端でちらりと相手を見返し、思わず喉を鳴らす。
 ロイドがこんな堅い表情で自分を見つめるのは初めてだった。分析するようにじっくりと男は青年の胸板を確認していた。白く滑らかな肌は歳相応に張り詰めた筋肉がつき、なだらかに下降したあとほっそりとした腰へと繋がっていた。しかしそこには裏切りの証拠など何一つ見いだせなかった。
「……首だけ、か」
 幾分自身の声色が和らいだように感じられ、内心男は苦笑せざるを得なかった。もしも体中に愛撫のしるしが残されていたとしたら、衝動的に自分は何をしていたか。
「違う」
 青年の掠れた声が僅かな静寂を破った。無意識に険のある表情でそれを受け取ったロイドはじっとペッパーを見つめ返した。
「何が違うんだい?」
「俺は、あんたのものだ」
 暗い蒼の瞳が真っ直ぐに男を受け止める。
「ただの一度だって、他人に心をやったことはない。……全部、あんたに捧げてる。……最初に会ったガキの頃から、今もずっと俺は、あんただけのものになりたかった」
 ロイドは目を見開いた。
 いつの間にこの青年は、こんな言葉をあっさり口にするようになったのか。
 いや、彼は昔から変わっていない。出会った頃の自分にも、同じ言葉を青年は繰り返していた。

 あの頃からずっと、想いは変わらずにいたのか。

 それは、これまで意識的に遠ざけていた感情を荒々しく呼び覚ますには十分すぎる起爆剤だった。
「っ」
 その細い首筋に顔を近づけられ、唐突に感じる痛みにペッパーは眉を歪めた。ちりちりと火薬で炙られるような感触がしたのと同時に体が震える。呆然としていると、ふいに顔を上げたロイドとまた目があった。
 瞳の中で水銀に似た光がこちらをじっと見つめている。森に暮らす孤高の生き物と出会ったときに感じた高揚感と、ほんの少しの恐怖が青年の全身を支配した。息を詰めたまま時を待つ唇に、そっと、けれど否応なく男は唇を押し当てた。ペッパーは強張る瞼を無理やり閉じた。
 口づけは深く、猛々しかった。今まで経験したものとはまるで違っていて、縋り付くようにロイドの背へ両腕を回す。体中で呼吸をしながら青年もその行為を受け入れた。徐々に慣れてくると脳天が軽く痺れ、舌の動きが曖昧になったが、最中に何度か相手の名を呼んだ。ロイドは微笑んだ。
「僕のものだと主張しておきながら、いつまでも館長呼ばわりじゃ味気ないな」
 甘い囁き声が中断させた行為に、青年は瞳をうっすら開け、潤んだ瞼の奥からじっと見返しながら、先を強請るような仕草をした。
「……じゃあ……」
 陶然と酔わされ動きの鈍くなった舌先で、今度は目を閉じたまま相手のファーストネームを呟くと、再び口を塞がれた。
「……可愛いな、ジギーは。……そんな素直な態度ばかり見せちゃ、僕の理性がもちそうにない」       
 再びキスされたのは顔ではなく鎖骨だった。短く息を跳ねさせる青年に構うことなくロイドの頭部がそのまま降りていく。これがどういうことになるのか、さすがにペッパーは気付かされた。そして何の気なしに部屋の隅を見て、慌てて目の前の男の肩を掴んだ。
「あ、ちょっと……待って、今は、マズいんだ」
「何が? ……というか、多少はそんな気分になってくれないと、こちらとしても立つ瀬がないけど」
 再び短く言った後、行為へ戻ろうとするロイドが顔を下げた瞬間だった。
 ざぁっと風が吹く感触と、大きな羽ばたきが同時に巻き起こり、男の真上ぎりぎりを何かが通過した。旋風に互いの髪が吹き飛ばされ、あっけに取られて前を見ると、ペッパーの左肩に大きな猛禽が双の前肢を絡めて止まっていた。ペッパーのシャツはほぼはだけていたものの、かろうじて爪の食い込んだ辺りには布が残っていたので皮膚は無事だったが、大柄の鳥に体重をかけられ、さすがに眉を寄せている。
「……ごめん館長。……そろそろハリーの食事の時間なんだ」
 数秒ロイドは無言のままだったが、思い出したように肩を震わせ笑い始めた。ペッパーは思わずため息をついた。
「……やっと館長とこういうことができるようになったのに、本当に俺は不運な男だ」
「……君が不運なわけないよ、ジギー」
 ソファに倒されかけていた体を引き上げてもらいながら、相手の言葉の意味を考えていると、ロイドは悪戯っぽくウィンクした。
「僕みたいな男を骨抜きにして手に入れたんだから、結局君は世界一の幸運の持ち主だよ」





END(20110901)


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