「できなかったら、飲めないもん。」


一.


 ……アルフォンスの、アラームが鳴っている。……多分、携帯の。
「……んー、るせぇ……」
 俺は耳元で聞こえるそれへと手を伸ばして探り当て、適当にどこかを押して目覚ましを止めた。
 捻った上半身をまたすぐ元の位置に戻すと、緩んでいた腕の力が再び俺の腰に絡まる。筋肉の盛り上がった胸の中心に額を置き、そこに両手をそっと触れさせても弟は目覚めなかった。そりゃあ仕方ないと思う。昨日の俺達、何時まで起きてたんだ。
 狭いシングルベッドのシーツはぐしゃぐしゃの皺だらけ、俺の髪もあっちこっちへ乱れまくっている。最後にどうにかシャワーを浴びたので体は綺麗でも、今日はリネン一式まるごと洗濯機へ突っ込んじまわないとやばそうだ。
「に……さ、いま、僕の、携帯……、鳴っ……た……?」
 ものすごく眠そうな掠れ声が上からぼそぼそ聞いてきた。が、ニヤつきかけた俺はそれどころじゃない。さっきからずっと視線の先に気になるものがあって、お陰ですっかり目が覚めていた。
 ちゅ、とキスをして、そのあまりの可愛らしい造形に釘付けになる。誘惑に耐え切れず舌で触れ、さらりとした味を確かめたあと、少し強く吸ってみた。
「……ん、兄さん……」
 まだアルはボケている。夕べの様子を思い出し、そうか、こういう場合、比較すると俺よりずっと運動量の多いアルのほうが疲労は激しいよな、などと考えながら、今度は反対側に吸い付いた。
「……こ……ら、兄さん、……朝から、何し、て……っ」
 引き剥がそうと、とうとう動き始めた両手の抵抗に気づき、俺はその指先を双方捕まえベッドに縛り付けた。
「……アールフォンス、まだ寝てていいぞ」
 徐々に潜りつつ、舌で胸板をなぞるようにすると、アルの心臓周辺でふたつの尖りはぴくりと揺れた。
「……兄さん……」
 声がちょっと怒り始めているのがわかったが、その反応までも気持よくて止められない。顔を更に下方へと向けた。
「……ちょっと!」
 もう少しで目標へたどり着く手前で、俺の両手を今度は弟がぎゅっと掴み、そのまま布団の外へと引っ張り上げられる。まだ瞼が眠ってるようなアルフォンスと、とうとう目があってしまった。
「……何すんだよ?」
「それ……僕の台詞じゃないの」
 俺は兄のはずなんだが、なぜかいつもアルに怒られている。理由はよくわからない。しかし、とにかく怒りモードの弟は怖いのだ。一度として勝てた試しがない程に。
 悪戯を発見されてしまった気まずさで、やや冷や汗と、そして早朝から妙に興奮した赤ら顔でふくれっ面を晒すと、弟は寝ぼけ顔のまま唇を近づけた。ここ最近の経験ですっかり慣れた口づけが俺を無防備にするのがわかる。やばい。重なる肌の温度と重みに、全面降伏で体から力が抜けてしまう――
「……続きは、朝御飯食べたらね」
 は、と気づくと俺は逆にマットへ沈められていた。頭上には眉を寄せ、困り顔したアルフォンス。
「……あ、れ?」
 ひとり、ベッドで転がる俺を置いてきぼりにしたまま、弟はさっさと布団から出て夕べの服を探し始めた。
「なんだよちくしょう……あとちょっとだったのに!」
「何言ってるの、今日こそは学校休めないんだよ。先生に家庭訪問されたくないだろ?」 
 ベッドに拳をだんだんと打ち付け、くやしがる俺を尻目にアルフォンスは冷静だ。
「だっておまえ、未だに舐めさせてくれねぇじゃねーか」
 むくれて唇を尖らせたまま、俺はアルの着替えを見ていた。引き締まったツヤツヤの美尻がパンツに消えてゆく。……ああ、俺の桃源郷よさようなら、また会う日まで。
「あのねえ、この家を出るまで、今朝はあと一時間切ってるの。僕はちゃんとした朝食を用意したいんだよ。兄さんに牛乳も飲ませたいし、その髪をちゃんと可愛く結ってあげたいし」
「ううう」
「ほら、兄さん、起きて!」
 昨日脱いだ場所からアルが発見し、ぽんと放られたボクサーパンツを受け取って、仕方なく俺も身を起こした。途端に腹が大きく鳴る。そのまま部屋から去ろうとしていた弟が、思わず表情を崩して振り返った。
「正直な体だね」
 思い切り笑われ、ムードもへったくれもなくなった俺はむくれたままのろのろと服を着た。
 顔を洗い適当に拭いてダイニングキッチンへ行くと、席につくやいなやチーズトーストを手渡される。コーヒーをちびちび啜りながら六つ切りパンを齧る俺の背後に周り、アルフォンスは鼻歌交じりに髪をとかし始めた。
「おまえ、飯は?」
「もう食べたよ。兄さん来るの遅かったから」
 そんなふうに言われてしまうと、弟がてきぱきと拵えた朝食にさえ八つ当たりしたくなる。大きく歯型を残しながらトーストを征服していくうち、俺の髪はひとつに纏められ高いところで結ばれた。
「……だって朝からあんなキスされたら、動きも鈍くなるっつーの」
「あんなって言うほど激しくしてないよ」
 そう言う唇が俺の頭に音を立てて密着する。ちょっとだけいい雰囲気が復活したかもと期待して俺は甘えてみた。
「なあ、今朝はあの恐ろしい儀式を省略しようぜ」
「飲まないと伸びないよ? そのまま止まっちゃってもいいの?」
 俺の意図をなんなくスルーしたどころかトゲ付きの鉄球で放り返したようなレスにかっとなり席を立った。
「俺はやればできる男だ! 長年うっとおしがられていたおまえとだって両思いになれたんだぜ! これだけの奇跡を実現させたことと比べたら、身長だってこの俺が本気で願えば伸びないはずはない!」
「願掛けでどんな奇跡でもかなうなら誰だって苦労しないよ……さて、ご飯終わった? じゃあ次は兄さん専用成長促進剤だね」
 その片手に現れたバリウム擬態の液体は、いっそ殺してくれと叫びたい程俺の視覚と味覚と嗅覚へとダメージを与えてくるシロモノだ。グラスの中身は今の俺にとって、アフリカ南部の木の内側に生息するでかい芋虫モパネワームを、潰してジュースにしたらきっとこういう色合いになるだろうと想像するくらい苦手な飲み物だった。 
 それくらい不気味で恐ろしい牛製造ドリンクを平気で俺に突きつける弟は、ある意味サドだ。近づく物体を恐れ、思わず首から上を仰け反らせる。
「ちょっとまて、今朝はまた一段と臭すぎる! 今日のチャレンジは棄権する! 俺にはその権利がある!」
「時間のない朝に限ってだだこねないでよね……じゃあこれで我慢して」
 そう言うとアルは信じられないことに俺の鼻を人差し指と親指でつまみながら自分の顔を近づけてきた。しかしそれじゃあと俺が反論する前に、奪われた唇ごしに危険物が流れてくる。俺は青ざめた。
「んーっんん、むぉんんんっ、んぉんんん!」
 鼻から息が吸えないということは、口に入ったものを飲み下さない限り呼吸ができないということで、俺は死ぬ殺される今天国のお花畑で母さんがにっこり微笑みながら優しく手を降っていたと、口走れない口で抗議しながら(母さん死んでないけど)やっとのことでどうにか異物を胃へと追いやった。
「アルッ、……は、早く!」
 鼻から手は離れたが、いま匂いをかいではいけない。鼻腔が余計なスメルをキャッチしてしまう。
「……んんっ!?」
 ところが再びアルフォンスから液体が送られてきて、俺は今度こそ無理とその液体を舌で押し返してしまいかけたところ、先ほど飲み残していたらしいコーヒーだった。涙まじりの目で弟が持っていたカップから現状を確認したあと、茶色い液体を口中の隅々まで染み渡らせて漸く飲み下すことができた。これらを全て統括し、いっそカフェオレを口にしたと思えば、胃袋も慰められるだろう……?
「あ、あああああああ!」
 口が離れるやいなや、俺は叫んだ。
「てめぇ! なんで最初からカフェオレにして飲ませてくれないんだよ! それならもっと受け入れられるのに!」
 怒鳴る俺を見て、アルフォンスは逆に聞き返した。
「……それなら、最初からカフェオレで飲ませていたら兄さん、僕の口移しじゃなくても飲めたの?」
「あ、あたりま、えっ……!? ……えっ……あれ?」
「……まあ、まだエレメンタリースクールの頃の僕らは、コーヒーが飲めなかったしね」
 は、と気づく俺をじっと眺め、アルフォンスは微笑んだ。
「でも……ジュニアハイの頃には、もうお互い、コーヒーは飲めたよな」
「そうだね」
「カフェオレならなんとかアレの存在を許せるようになったのは、ハイスクールに入る前、だったような」
「だったよね」
「……するとなにか。……俺はアルと毎朝ちゅーしたいがために、しなくてもいい苦労を、ここ何年もずっと、ずっと我慢していたことになるんじゃ……っ」
「ああ、とうとう気づかれちゃったか」
 アルフォンスは笑った。そして俺は悔しさに半泣きだ。
「なんだよ! 俺が命がけのミッションをこなす辛さに耐えていたのを知ってて、どうしておまえは長々と教えてくれなかったんだよ!?」
「だって兄さん、毎朝のこれがなくちゃ僕達、キスなんてずっとできなかったんだよ」
 叩いてやろうと伸ばした腕を取られ、胸の中にぎゅっと抱き込まれる。その体に包み込むようにされると、俺はみるみる抵抗する気をなくした。
「毎日毎日、これのおかげで兄さんの唇に触れる権利があったんだ。僕としては感謝したいところなんだよね」
「そんなん、……俺ははじめからずっとちゅー目当てだったのに……あんな恐ろしい辛さと引換でなくてもさ」
「じゃあこれからは、兄さんひとりでカフェオレにして飲む?」
「いいけど」
「けど?」
「ひとりで飲んだらご褒美のちゅーはなくなるのか?」
「もうご褒美じゃなくていいだろ。……理由なんかいらない」
 そう言いながら下りてくる顔を両手で引き寄せた。アルはすぐに離そうとしたけど、俺が許さない。
「これ以上ディープなのはだめ、学校遅れちゃうよ」
「いいって、今日も休むから」
「本当にノックス先生に来襲されるんだよ」
「居留守使うから平気」
「全くもう、兄さんってひとはそんなだから……っ」
 それ以上の言葉を俺は喋らせなかった。散々な目にあった分だけ、このキスで全部取り戻してやる。そう思ってひたすらアルの唇を貪った。俺の勢いに押されるように、アルフォンスも少しずつこちらを抱く腕の力を強くする。

 がちゃり。

 不穏な音がしたのは玄関からだった。しかし鍵がかかっているはずだと思いつつ、まだノックス先生が俺達の不在に気づいて現れるには一時間くらい早過ぎる。

「おーい」

 俺達がたったひとつ思い当たったと同時、派手に開かれたドアから間抜けた男の声がした。唇は離したが、アルにがっちりと捕まったまま、俺と、そして多分アルも、言葉をなくしてそちらを見つめる。

「アル、エド、この時間ならまだいるんでしょ」
「悪戯坊主ども、たくさんお土産買ってきてやったんだから出迎えくらいしろよ」

 そう言いながら仲良く居間へ現れたのは父さんと母さんだった。



二.



 まさか、と僕は茫然としたまま居間に現れた両親を見た。
 二人はいま豪華客船で行く世界旅行中のはずで、帰ってくるのはまだまだ先の予定だった。それこそあと数カ月はあったはず。
「わははは、びっくりしただろうアルフォンス」
 父さんは満足そうに笑って荷物を床に置き、ほら驚かせ甲斐があっただろうトリシャ、と母さんを振り返ってまた笑う。
「それにしてもおまえ達、相変わらずの仲良しっぷりだな」
 兄さんと抱き合ったままだったのを思い出し、慌てて離れると、兄さんはムッとして父さんに八つ当たりした。
「このやろ、いいトコだったのに邪魔しやがって。なんで急に帰ってきたんだよクソ親父。旅行はどうした」
「いやあ、ちょっとわけがあって、途中で帰ってきちゃった」
 えへ、と頭に手をやって笑う父さんの後ろで母さんが、やあねあなたったら、なんて言って照れてる。文字通り「わけ」がわからない。
 そうそうお土産だけどな、と父さんが荷物の中から大きな袋を出してガサガサし始めた時、我に返って時計を見た。
「父さんごめん、帰ってきてからでいい? 兄さん学校に行くよ、遅れる」
「あら、ご飯は?」
「ちゃんと食べたよ。行ってきます」
 何かいろいろ言いたそうな兄さんの腕を掴んで、半ば強引に家を出た。
「アルっ」
「なに」
「なんでそんなに冷静なんだよ、せっかく――」
「本来の家族の姿に戻っただけだろ。いいから早く行くよ」
「俺達まだ両手で数えられるくらいしかえっちしてねえのに!」
 往来でそんなこと口にするな。
 とにかく早く早くと急かしてうやむやにし、僕たちは学校へ向かった。

 何故突然帰ってきたんだろう?
 授業を受けながら、そっと兄さんの後ろ姿を盗み見る。今日僕が結んであげた長い髪の先が、綺麗に背中に流れていた。珍しく真面目に授業を聞いているのか、それとも寝ているのか。ひょっとしたら僕と同様に今朝のことを考えているのかも。
 父さんたちに帰ってきて欲しくなかったわけじゃないけど、正直複雑だ。いろんなことがあって、やっと兄さんと想いを通じ合わせて、これから二人でしか出来ないことをやっていこうと思っていたのに。いずれこうなることは想定してたけど、まだ先のことだと思っていた。父さんと母さんがいない間、数カ月に渡って蜜月を過ごせるはずだったのにな。やっとちゃんとしたセックスができるようになったのに。
 今までペッティングが数回で――セックスは何回しただろう? 兄さんが言うように片手で数えられるくらい? 同じベッドで寝たのが三回か。
 禁欲を強いられるには早すぎる。まだ足りない。もっともっとしたい。
 いや別に兄さんの体が目当てなわけじゃないくて、ただ一緒に居れるだけでも幸せだけど、やっぱりもっとセックスはしたい。……性的欲求が強くなってきた年頃だし、覚えたてだし。一人でするのとは全然違う。好きな人と肌を合わせたり繋がったりするのがあんなにゾクゾクするような快感を生むなんて、頭では分かっていても実際は知らなかった。
 ――これから、どこでしよう。
 兄さんには父さんと母さんが帰ってきたら今度は学校でするようにしようか、なんて言ってたけど、実際は厳しい。コンドームとローションを学校に持ち歩いてもし見つかったら、当然ヤバいし、えっちをする場所の問題もある。学園祭の時は人が立ち入らなくなるところがいっぱいあったけど、普段となるとそうもいかない。体育倉庫で隠れてしてても、道具を取りに誰かが突然入ってきそうだ。
 ……まずい。そんなことばっかり考えてたら、兄さんとセックスしたくなってきた。
 僕は頭を振ると、目覚めてきた欲望が下半身に行く前に揉み消そうと、授業に集中した。


 まっすぐ家には帰らず、僕たちはコーヒーショップに寄った。
 僕はコーヒーとポテトを、兄さんは紅茶とケーキを三つ。この人は甘いものが好きだ。この締った体のどこに吸収されるんだろう、なんて思って「締った体」をえっちくさく思い出し、慌てて振り払う。
「くそー、本当なら今頃さっさと家に帰ってアルといちゃいちゃ出来たのに。なんで突然旅行を切り上げて帰ってきたんだよ」
「さあ」
「考えてみたら、大金出して取った旅行なのに、ふいにしちまうなんてヘンだよな。よっぽどの理由があったってことか?」
「うーん……そうなるね」
「会社でトラブルでもあって戻ってきたのかな。それともなんか問題起こして客船にいられなくなったとか」
「まさか。兄さんじゃあるまいし」
「どういう意味だよ」
「一番考えられる理由は会社のトラブルかな。でもだったら真っ先に会社に行きそうじゃない?」
 母さんと二人でにこにこしながら、お土産たくさん買ってきたぞー、なんて言って帰って来ないと思う。わからない。なんでだろう?
「部屋で静かにやれば出来ねえかな?」
「無理だよ。兄さん声が大きいから」
 兄さんは一気に赤くなって、だってそれはアルが、ともにょもにょ言いながら僕から目を逸らす。可愛く照れないでよ、こっちのほうが落ち着かなくなるだろ、と胸の中で兄さんを責めながらなんとなく僕も照れて、誤魔化すためにコーヒーカップを口に運んだ。
「俺、今日こそはと思ってたのに。……アルのを舐めたい!」
 ぶっ、とコーヒーを吹いた。
「熱っ」
 組んでいた足にも飛んで制服に浸みた。
「大丈夫かアル」
 上唇がじんじんして、カップを置くと右手で口元を覆う。
「火傷したのか? どれ、兄ちゃんが舐めてやる」
 身を乗り出してきた兄さんの頭を、近づいてこないよう僕は反対側の手で押し返した。


 久しぶりに母さんが作った晩御飯を家族で食べて、賑やかな団欒を過ごした。もっとも賑やかだったのは夫婦二人だけだったけど。
 二人とも、妙に浮かれてる。僕と兄さんはというと、二人きりの生活がもう当たり前になっていたので、突然始まったこの状況をなんだか居心地悪く感じていた。
 自室に戻って机に向かい、勉強するために教科書とノートを開いたもののやる気が起きず、僕はペンを指先でくるくる回し、それをぼんやり眺めていた。
 階段を上がってくる足音が聞こえる。兄さんだろうか? 
 隣の部屋へ行くかと思っていたその足音は、この部屋の前で止まる。
「アル」
 ドアが開き、中へと入ってくる。すでにパジャマ姿に着替えている兄さんは、長い髪が少し湿っていた。お風呂に入ったのか。
 風呂が空いたぞと言いに来たんだと思った僕は、ペンをノートの上に置いて立ち上がり、着替えを出そうとした。すると兄さんが僕の前に立ちふさがり、胸に抱きついてきた。
「アル」
「兄さん? なに?」
 石鹸とシャンプーのいい匂いが兄さんから香って、僕は落ち着かなくなった。
「こっそりしようぜ」
「無理だよ」
「大丈夫だって」
 兄さんはじわじわと首筋を赤くしていく。
「……俺、我慢する。その……声を、出さないようにするから」
 だから、と言って顔を上げ、僕の下顎を舐めてきた。
 逡巡し、兄さんの体をそっと抱いた。髪に唇を埋めてキスしたら胸の奥がぎゅっとなって、愛しさが溢れてくる。それに、声を出さないように我慢するから、なんてそんなこと言われて、興奮するなっていう方が無理だ。
 顎を猫みたいに舐めていた兄さんの体を引き離し、顔を上向かせて少し荒々しく唇を重ねる。
「ん……」
 催促する前に兄さんが口を開けた。その中へ舌を忍ばせると、応えるように舌を絡めてくる。ぞくぞくするような感覚が湧きあがってきて、僕は薄緑色のパジャマの中に手を忍ばせる。脇腹を撫でるとお風呂上りのせいか手に貼りつくようにしっとりとしていた。
 唇を離すと、兄さんの両脚を掬い抱き上げて僕のベッドへと寝せ、その上に覆い被さった。
「ア――」
 兄さんが何かを喋る前にキスをして唇を塞いだ。貪るようにキスを続けて、パジャマのボタンを外してゆく。前をはだけて胸を撫でると、今度は首筋に唇を寄せて強く吸った。兄さんが震えて吐息をはく。僕は下肢へと手を滑らせて、兄さんの脚を割った。
 布越しに中心へ触れようとしたその時、突然部屋のドアが開かれる。
「アル。あら、エドもこっちにいたの? ココアを淹れたわよー、下に降りてらっしゃい」
 母さんの乱入に、僕たちは驚いて背後を振り返った。そんな僕たちを見て、母さんは笑う。
「あら、プロレスごっこ?」
 冷めないうちに降りてきなさいね、と言って母さんはドアを閉めた。
 階段を下りてゆく音を聞きながら顔を見合わせ、僕は溜息をついて兄さんの上から退ける。
「アルっ」
「仕方ないだろ」
 家でこっそりするのは無理かも、となんとなく絶望的な気持ちで半裸の兄さんの姿を見下ろして、また溜息をついた。







「できちゃった、って何」
 母さんが頬を染め嬉しそうに言った言葉をアルはそのまま繰り返した。
「赤ちゃんよ」
「赤ちゃん?」
 今度は俺がオウム返しになる。一体、何のことだ。
「おまえたち、鈍いなあ。……つまり、母さんに赤ちゃんができたんだ、妊娠三ヶ月に入ったところだ」
 父さんが俺達の前で母さんの肩を抱き寄せつつ、二人は照れ笑いした。
「……え」
 俺達兄弟は互いの顔を見合わせ、それからまた相手に向き直り、ほぼ同時に叫んだ。
「に、妊娠三ヶ月!?」
 そういや二人して自然に母さんの腹を守るように手をあてているし、父さんはハートマークが飛びそうな目でそんな母さんの腹部を撫でている。
「大きな声出すなよ、赤ちゃんがびっくりするだろう?」
 びっくりしたのは断然こっちのほうだ。
「だってあんたたち、いくつになってそんなこと言ってんだよ」
 母さんはため息をついた。
「そうなのよねえ、私もまさかこの年で三人目を身ごもるとは思ってなくて驚いちゃった」
「いやいやトリシャ、きみはまったくあの頃と変わらないよ。初めて会ったときと同じように、今も輝いているよ、俺のビーナス」
「もう、あなたったら」
 母さんはそんな父さんの胸に人差し指をあてて無駄にぐりぐりと押し付けていた。
 相変わらずこの二人のアツアツっぷりは健在だ。幼い頃から見慣れすぎていてもはや何も感じなくなっていたが、さすがに今回ばかりは驚かされた。
「それじゃあ旅行へは戻らずに、このまま出産に備えるってことなんだね」
 アルが尋ねると母さんは頷いた。
「船上にいるとつわりが酷くなりそうだから降ろしてもらったの」
「えっ、大丈夫なのか、母さん」
 よく見ると母さんは少し痩せたように見える。顔色も赤みがない。ところが、もっとよく確認しようと近寄った俺の手を、いきなり掴まれた。
「ほら、エドも触ってみて」
「えっ……うわっ」
 母さんが俺の手をそのまま自分の腹部に当てようとしたので、慌てて手を引っ込めた。
「やあね、触ったって何も起こらないわよ。……大丈夫よエド」
 にっこり笑われ、俺は自分の意気地のなさにほんの少しショックを受けつつ、もう一度、今度は自分からそろそろと手を伸ばした。母さんの腹に触るのなんて何年ぶりだろうか。しかし、おっかなびっくり指先をあててみるが、特にぽっこり膨らんでいるわけじゃなかった。
「……こん中に、赤ん坊なんてホントにいるのか?」 
「いるのよ、まだとってもちっちゃいけど、もう心臓が動いてるのよ」
「へぇー」
 俺は振り向き、その場で動けなくなっていた弟に声をかけた。
「アル」
 アルフォンスは俺の言葉で漸く我に返ったかのような顔をして、それから側にやってきた。俺がいた場所を譲ってやると、弟も恐る恐る指を出し、こわごわ母さんの腹に手を置いた。
「この中に、僕と兄さんの兄弟が……?」
「そうね、男の子か女の子かわかるのは、もう少し先だけど」
「今度こそ女の子かなぁ」
 父さんは嬉しそうに笑った。
「エドワードが生まれる前は、医者に女の子だと思いますよって言われてたからな。生まれてきたおまえにちっちゃいチンチンがついてて、父さんちょっとショックだったんだ」
「ち、ちっちゃいは余計だろ!!」
「でもおまえときたら、あれさえついてなけりゃ女の子に間違えられる程の可愛さでなあ、ピンクのワンピースを着せて外に連れていくとしょっちゅう勘違いされて、それがやがて俺の快感に」
「なんだと……じゃあ、赤ん坊時代の写真に写っていた、あのありえない衣装チョイスはあんたのせいだったのか!!」 
 俺は悔しさでわなわなと震えた。唯一の汚点である幼少時代の写真は、家族以外の誰にも見せたことはない。
「で、アルにも同じことをしてやろうとしたら、アルはチンチンのサイズが一丁前だったせいか、着せようとすると泣いて暴れたので結局写真が撮れなかったんだよ」
「その……サイズはあまり関係なかったと思うけどね」
 ゴホンゴホンと咳払いしつつアルは言った。
 確かに写真に残る弟は、ピンクもフリルも無縁だった。しかしまさかその背景に、股間のサイズが関係していたとは。
「てことはもしや、腹の中の子がまた男だったら、父さんの魔の手が伸びるってことか! そんなのダメだ! おい、胎児、生まれてくるなら馬みたいにでっかいチンコつけてこいよ! でないと俺みたいに惨めな子供時代を送ることになっちまうぞ! ……って、べ、別に俺のが特にちっさいって意味ではないからな、断じて!!」
 俺は母さんの腹に向かい、どうでもいいことまで必死に訴えた。
「エドワードったら。私はどっちでもいいわ、無事に生まれてくれるなら。私たちの家族になる子だもの、どんな子だって大歓迎よ」
 母さんは嬉しそうに微笑みながら俺とアル、そして父さんの顔を一人一人ゆっくり眺めた。


 あまりのショックですっかり性的欲求は萎えたが、どうも話し足りなくて寝る前にもう一度アルの部屋に行った。
「十七、八歳違いの兄弟ができるなんて、想像もしてなかった」
 ちょっと呆然としたままベッドに座っていた弟の横に並び、その肩に頭を預けて俺はアルフォンスの言葉を聞いた。
「だよなあ。俺達、二人っきりの兄弟以外ありえないと思ってただけに、マジでたまげた」
「……でも、生まれてくるなら女の子のほうがいいかも」
「えっ」
 弟がそんなことをはっきり言うのは珍しい。アルならてっきり母さんと同じように、健康に生まれてくるならどっちでもいいって言うと思ってた。
「まあ、現在で男三人に女一人の男臭い家庭だもんな。これ以上男はいらないか」 
 笑って答えると、そこでアルは言いよどんだ。
「いや、そうじゃなくて、兄さんがちょっと……心配なんだよ」
「……ん? なんで俺?」
「きっと間違いなく、僕みたいな弟が増えたら兄さんはその子に夢中にさせられると思うから」
「……おまえみたいな?」
 ちらりと横のアルフォンスを盗み見ると、相手も同じようにこっちを見ていた。俺達は自然に顔を寄せ、軽いキスをした。
「だって兄さん、僕のことを猫可愛がりしてたあの頃の兄さんは普通じゃなかったよ。僕、兄さんに舐めるように大事にされすぎて、溶けちゃうかと思った」
「ええ? あれくらい普通だろ」
「……普通じゃなかったよ……」
「どのあたりが」
「説明しきれないよ」
 ゆっくりと回された手が俺の肩を抱きしめる。胸の中に引き寄せられ、俺は幸せすぎてぼうっとなった。
「当時の僕は兄さんのせいで、愛に溺れかけてた。兄さんに必要とされている、求められているという明確な手応えを感じるたびに、逆に怖くなった。その恵まれた環境に浸されることが、世間ではどう思われるんだろうとか、他人との違いを知るたびに僕は臆病になって、怖くて。……それからはずっと、どうやって兄さんから離れようかって……、そんなこと無理だってわかってるのに必死に足掻いてた」 
「……え、俺から、離れる……? おまえ、なんでそんなこと考えてたんだよ!?」
「うん、ごめんね」
 せっかくいい気持ちだったのが、一気に冷めた。想像するだけで俺には悪夢だ。
「泣かないでよ」
 思わず半べそ顔になった俺の頬に、アルはそっとキスをした。
「もう観念したよ。実際のところ、僕のほうが離れられないってわかったし、兄さんにこうやって泣かれると僕も辛い」
「だって俺、おまえがいないと生きていけないんだぞ」
「……けど、もしも僕そっくりな弟ができたら、今度は僕そっちのけでその子に夢中になられたら困る」
「んなことねぇよ」
「生まれてみないとわからないよね、こればっかりは。……でも、不安な要素は一つでも少ないほうがいい。だから僕は妹だったらいいなと願ってるよ」
 俺はちょっとだけ思案した。
「まあ、女だったら、いくらフリル三昧させられたって悲惨な思い出写真にはならねぇもんな。我が家的にはそれが一番無難かもな」
「でしょう?」
 再び唇に軽くキスをしてくる弟の体をぎゅっと引き寄せ俺は囁いた。
「なあ、えっちできなくても我慢するから、せめて一緒に寝ようぜ」
 俺の提案にアルは困り顔だ。
「うーん、昨日までは嬉しいお誘いだったけど」
「人肌がないと寂しいんだよ」
「じゃあ、一応僕も我慢してみます」


 その後俺達は一緒にその場で布団に潜り込んだが、十五分くらいしてアルが「やっぱり無理」と泣きそうな声を出したので、仕方なく自分の部屋に戻った。
 まあ確かにその十五分間、俺もまったく眠れなかったので気持ちはよくわかったのだが。



四.



 赤ちゃんかあ。弟か妹――どっちかな。
 僕そっくりの弟が、と言ったけどよく考えてみたら兄さんそっくりの弟かもしれない。可愛いだろうな。――性格まで似たら厄介なことになると思うけど。兄さん似の女の子だったら……この前の学園祭の兄さんみたいな、すっごく可愛い子だろうな。
 僕はなんて呼ばれるだろう? 名前で「アル」とか? 「お兄ちゃん」とか呼ばれるのかな。でも兄は二人いるわけだから、「エド兄さん」「アル兄さん」かな? 僕が兄さんと呼ばれる日が来るなんて、なんか変な感じ。
 産まれてくる子が大きくなったら、僕と兄さんの関係をなんて話そう? 君のことも大切だけど、エド兄さんは僕にとって特別な人なんだ、とか?
 あの人、そんなことないって言ってたけど、赤ちゃんが産まれたらでれでれしそう。ホントに心変わりとかしないかな?
「アルフォンス。アルフォンス・エルリック」
「あ、はい」
 名前を呼ばれているのに気付いて、慌てて席を立った。
「いまの設問の答えを」
 マイルズ先生に言われて僕は詰まる。隣の席でフュリーが自分のノートを指差して問題を教えてくれたけど、さすがに暗算できない。
「すみません、聞いていませんでした」
 先生が片眉を上げる。前の方に居る兄さんがノートいっぱいに大きく答えを書いて、これだこれ、と口をぱくぱくさせながらこっちを振り向いて教えてくれている。その兄さんの頭を片手でがっしり掴んで無理矢理前を向かせると、先生は僕を見た。
「どうした、らしくないな。具合でも悪いのか?」
 いえ、と否定しようとしたら兄さんが、アルは今日の朝から微熱があるんだ、と嘘をついた。
「本当か」
 嘘ですとも言えず、さらに詰まる。
「誰か保健委員は――」
 すかさず兄さんが高く手を上げた。





 サボりにきたと正直に言う兄さんに、じゃあお茶を淹れるね、と保健の先生は紅茶とクッキーまで出してくれた。
「まあ赤ちゃん? あらー、いいわねえ」
 兄さんから事情を聞いた先生は、産まれてくるのが楽しみね、と何故か自分がウキウキしてる。
「それにしても三カ月じゃ大変ね、お母さん」
「大変なのか? なんで?」
「だってこれからつわりとかがあるでしょう?」
「あー、そりゃあ、まあ」
「食べざかりを二人も抱えてつわりじゃ、大変よ。妊婦は食べ物の匂いとかに敏感になるから、あなたたちの食事を用意するの、拷問になるわよ。まあつわりがない人もいるけど」
「……兄さん、母さんが僕を妊娠してた時どうだった? つわりが酷そうだったか覚えてる?」
「アホか。母さんがアルを妊娠三カ月だったとき、俺はまだ一歳にもなってねえ」
「兄さんだったら記憶力も非常識かなと思って」
 先生はからからと笑って、まあこれからはあんまりお母さんの手を煩わせることがないようにね、と言った。
「ずっと二人で自炊してたんだから出来るでしょう? あんまり重いものを持たせたりもしないように。安定期まではしっかり家族が守ってあげなきゃ」
 安定期? と僕と兄さんが声をそろえて聞き返す。妊娠五カ月から七カ月くらいの間を言って胎盤が完成するのだ、と先生は言った。子供が二人いる先生は詳しく、このころになると運動をして関節を広げやすくしたり血液の循環を良くしたり、といろいろ説明してくれた。他にも、体に大きな変化が現れて息切れがしやすいだの脚がむくむだの、腰痛があるだの、胃が上に押し上げられてあまりたくさん食べれなくなるだの……そんなに大変なのかと僕たちは唖然としてその話を聞いた。




「……妊娠って大変なんだな」
「うん」
 学校帰り、僕たちは並んで歩きながら先生に聞いたことを話し合った。
「よく考えてみると、女の人ってすげえなあ。新しい命を作っちまうんだぜ? 自然治癒が備わってる皮膚とか、勝手に成長する爪とか、電池もねえのに血液を循環させたり、目に見えない感情とかを持つようになったり。世界中の科学者が何十年たっても生み出せないのに、女の人は一人でそれをやっちゃうんだぜ? すげえな」
 興奮している兄さんを笑い、僕は手をのばしてつなぐ。指を絡めてぎゅっと握ると、兄さんが握り返してきた。
「協力してあげないとね、いろいろと」
「食事だろ、掃除に洗濯だろ、あとは」
「買い物とかも付き合ってあげないと」
「あー、そうだなあ。でもくそ親父が嬉々として買い物に付き合いそう」
「休日はね。じゃあ僕たちは平日の買い物とか付き合おう」
「あ、病院とかどうすんのかな? 毎回付添とかは」
「病院は平日だよ。またサボる気? 留年してもしらないよ」
「う…それは困る。アルと同級生じゃなくなる」
 コンビニ前を通りかかると、兄さんが急に足を止める。
「そういや俺、買いたい本があったんだ。ちょっと寄ってくから先に帰っててくれ」
 付き合おうかと思ったが、家は目と鼻の先だ。わかった、と言って僕は先に家に帰った。
「ただいまー」
 玄関に靴があったので家の中に居る母さんに向かって大きな声を出した。いつもだったら母さんが負けじと大きな声で、おかえりなさい、と言うのに返事がない。あれ? と思って家の中に入ると、か細い声でアルと呼ぶ声がした。気のせいかと思ったが、耳を澄ませているともう一度、アルと呼ぶ声が聞こえてくる。声のする方へ行ってみたら、階段のところで母さんが蹲っていた。
「母さん!」
 周囲には洗濯かごと衣類がぶちまけられている。
「大丈夫!? どこがぶつけたの!?」
 兄さんが、ただいま、と帰ってきた。
「兄さん救急車呼んで! 早く!」
 僕の声に飛び込んできた兄さんは一目で状況を判断し、電話があるリビングへと駆けて行った。余程慌てたらしく、パトカーお願いします! なんて言ってたので、救急車だよバカ兄! とたしなめてやった。




 救急車に乗ったの、初めてだ。
 いや昔幼いころに大きな事故に遭って乗ったことがあるらしいけど、意識がなかったので覚えてない。
 病院の廊下にある長椅子に兄さんと並んで座っていたら、会社を抜け出してきた父さんが息も絶え絶えに駆けつけてきた。場所が分からずこの大きな病院内を駆け回ってきたらしい。
「かっ、かあさん、は」
「落ち着けくそ親父」
 兄さんは肩で息をしている父さんに、さっき本と一緒にコンビニで買ってきたらしいペットボトルの飲み物を手渡した。父さんはそれを炭酸とは気付かずに一気に飲み、ぶはっと吹き出してスーツをびしょびしょにした。
「落ち着けってーの」
「大丈夫だよ父さん。たいしたことないって先生が」
 洗濯物を抱えて階段を下りる途中、眩暈がしてよろけ、階段を落ちたらしい。慌てて手すりにしがみついたおかげで落ちたのは数段だけだったけど、お腹と腰をかばったせいで足は痣だらけ、タイムリーにつわりが襲ってきて、しかも貧血が治まらなくて動けなくなったそうだ。お腹の子供は大丈夫だけど、貧血は治療しないといけないとのことで、念のために一週間入院することになった。
 父さんが呼ばれ、医師に説明を受ける。僕たちは看護師さんに言われて入院の用意をするために家に戻った。
 渡されたリストを見ながら荷造りをし、二人で家を出る。
「……親父には落ち着けなんて言ったけど、正直寿命が縮んだ」
「そうだね。僕もかなり縮んだよ……」
 妊婦ってコワイ。
「大切に周囲が守ってあげなくちゃいけないね……」
「そんなこと言ったら、母さんは『あら、大丈夫よー。大袈裟なのよあなたたちは』とか笑って言いそう」
 確かに簡単に想像できた。けろりとしてそう。
「保健の先生が言うとおり、出来るだけ家事は僕たちでしよう」
「そうだな、せっかく年が離れた息子が二人もいるんだし」
 大通りに出てタクシーを止め、二人で乗り込む。病院の名を告げて車が走り出すと、僕たちは手をつないだ。
 母さんの中にいる、赤ちゃん。父さんと母さんの赤ちゃんだけど、なんとなく、僕たちの赤ちゃんでもあるような気がした。
 ――兄さんと僕が守ってあげなきゃ。



五.



 正直、大切な誰かが失われかけるのは一遍きりで十分だ。

 タクシーの中で握ったアルの手はとても暖かかった。この温度のお陰で勇気づけられているという気もした。俺はどんな時でもひとりじゃない。如何に厳しい現実と戦おうが、横にはアルがいる。今日のことだって、あの場にいたのが俺だけだったらひたすら心細かっただろう。
 弟が一緒だったことを感謝すると同時に、想像するだけでぞっとする。まだ、はっきりとした形になっているのかすらわからないような魂の存在が、急激に俺達の重力に加わったような感覚に、ぐいぐい押しつぶされそうだ。そんな不安を払拭したくてアルフォンスに話しかけた。
「人がひとを生み出すのは奇跡的だよな、いろんな意味で。…それを痛感した感じだな」
「ああ、僕もそれは改めて思った。……まだたった三ヶ月なのに、あのお腹の中にいるのは間違いなく僕らの家族なんだ。……ほんのできたてでも、ひとの命ってすごく重みがあって、深く考えさせられるね」
 俺は思いついたことを言ってみた。
「新たな家族か。……俺達は多分増やしてやれないから、腹の子にエルリック家の未来を任せるしかないか」
 ふとした口調でアルが聞いてくる。
「僕ら、お腹の子が僕らくらいになる頃にはどんな大人になってるんだろう」
「あっさり親父の会社で働くのもシャクだから、当然外に出てるよな?」
 一応確認の意味で聞いたのだが、アルフォンスはやたら驚いていた。
「えっ、そうなの?」
「違うのか」
「父さんの会社を手伝うものだとばかり」
「俺達どころか社長の親父がいなくたってちゃんと動いてるような会社だぜ。そこに固執する意味はねぇだろ。その時はおまえも俺と一緒に家から出ろよ」
「うーん、そうか、言われてみれば確かにそうだね……」
 できるだけアルと一緒に働ける職種を探すんだから協力してくれと俺が言ったら、弟は少しくだけた表情で笑った。
「まったく兄さんは、昔からちっとも変わらないね、そういうところ」
 横のアルフォンスがこちらに傾いてくるので、俺も片手を握ったまま弟に体重を預けた。この温度と比例する安心感を他に俺は知らない。黙って目を閉じると、確かなぬくもりがじわじわと肌に染みてくる。
 双方で寄りかかったまま、病院につくまでなんとなく無言だった。
 その後先ほどの院内へ再び戻り、母さんの病室を確認して荷物を手渡そうとしたら、今度は父さんの様子がおかしい。
「迷惑はかけないから、ここに泊まらせてくれないかな」
 父さんは院長と看護婦達に困ったことを頼み込んでいる。
「ここは付き添いの必要のない病院ですから、ご心配されなくても大丈夫ですよ」
「俺が大丈夫じゃない」
 優しく看護婦が諭すのを必死で父さんは拝み倒した。
「こんな状態の妻をおいて家に帰っても気になってとても眠れやしない。俺は床で寝てもいいので側にいさせてほしい」
「いやいや、まさかそんなわけには」
 父さんの提案にぎょっとした様子の医者は、看護婦と相談し、たまたま空いていた二人部屋に母さんを入院させることにした。付き添い人は隣のベッドを使ってもいいが、普段は許されないことなので今夜だけの特例でと念を押され、父さんは嬉しそうに何度も礼を言った。しかし俺達の親父は交渉人として抜群の才能を持ち、会社をここまで発展させてきたような男だ。明日以降もこの部屋は二人のために、多分最終日まで使われることになりそうだ。
「というわけでトリシャには俺がいるから大丈夫だ。おまえらは心配せずにさっさと帰っていいぞ」
 偉そうに言う自信満々男に呆れつつ、母さんに他のことをあれこれ聞いてから俺達は自宅へと戻った。
 時計は既に午後八時を回っていた。冷蔵庫と台所をのぞいたら母さんが用意してくれていたシーザーサラダやオニオングラタンスープ、そして下ごしらえ済の魚が用意してあったので、それはアルがムニエルにした。他、母さんは常備菜もいくつか作っていたようで、見つけたアルがそれらをテーブルに並べた。男の俺達ではなかなか作る気になれない、手の込んだ煮込み野菜がたくさん入っていて、一口食べるとまさにおふくろの味だった。俺と、そして多分アルもほぼ同時に、入院した母さんを思っていた。
「うまいな、どれも。豆料理なんて昔は苦手だったのに、味覚が大人になったのかもな」
「うん、そうだね。四人で一緒に食べて、母さんに美味しいってちゃんと言いたかったね」
 交わす言葉といえばそれくらいしか出てこなかった。食事を終えて洗い物を片付け、交互に風呂にはいるのもいつもはだらだらしているのに、今日は何故か動きが早い。俺達二人とも、そのまま居間で珍しく宿題のレポートを書いたりした。
 できれば今夜こそ一人になりたくなかった。
 しかし夜も更け、これ以上することもなくなり、俺はじわりと切り出した。
「あのさ」
「何」
「一緒に……寝てもいいか?」
「急にどうしたの」
 俺の言葉に思わずアルは微笑んだ。よかった、困った風な顔をされたらどうしようかと思った。
「今夜は純粋に人肌が恋しいんだよ、邪な意味じゃなくて」
 じっと見上げると、アルフォンスは一言、
「枕持っておいでよ」
 と言ってくれた。
 俺は嬉しくてすぐに自分の部屋に寄り、荷物を抱えるとそのまま弟の部屋に直行した。ベッドカバーを外したばかりだったアルは、自分の枕を端に移動させて俺のスペースを作ってくれたので早速潜り込む。
「ベッドメイキングしてくれたのって母さんか?」
「そうだね。でもちゃんと昨日の朝のシーツは僕が洗濯しておいたよ」
「あー、あれ見られたらやばかったな」
「兄さんがっていうより僕がね」
 アルは笑った。微かにその振動がベッドを伝い、ほぼ同時に俺の背全体に届く。俺も笑い返した。
「……やっぱ……男ふたりは狭いよな」
「じゃあもっとこっちにきたら?」
「いいのかっ?」
 一応遠慮していた俺に対して、弟は不思議なくらい寛大で、急に何もかも許された俺は驚きつつも嬉しくなり、くるりと体の向きを変えると、仰向けに眠る弟の左半身にぴたりと張り付いた。するとアルフォンスもこちら側を向いて、全身で俺を抱きしめてくれる。
「なあ、いつか引っ越すことになっても、おまえのこのベッドだけは持って行こうぜ」
「どうして?」
「ずっとこうやってくっついて寝られるもんな」
 へへへとにやけながら鼻先をアルのパジャマに擦りつける。くすぐったいなぁと弟は僅かに身を捩った。
「アルの匂いを腹一杯嗅ぎながら寿命を全うするのが俺の夢なんだ」
「……そんな将来の夢、どこを突っ込んでいいのかわからないよ」
 呆れ声は徐々に小さくなる。俺も目を閉じた。闇の中、かえって目の前の男のことを、はっきりと意識した。弟が拒絶しまくっていた頃は想像すらしなかったというのに、今や隅から隅まで俺達は互いのものなんだ。もう一生手放さなくていいと、アルは俺に言った。まあこの先、万が一アルフォンスが他の誰かに心を揺すられることがあったとしても、遠慮なんかしないけどな。俺は猛禽のように鋭い爪と嘴でありとあらゆる敵を蹴散らしてやる。俺以上にこいつを欲してる奴以外には、絶対弟は渡さない。で、そんな奴は地球上にいないはずなので、永遠に負ける気はしない。
 そうとも――俺ほど弟のストーキングがうまい男はこの世にいない。
 色々考えているうちに、もやもやしてきた。
「……なぁ……アル」
「ん……?」
 眠そうな声を出す弟に、俺は囁いた。
「話はかわるが……本気で純粋に、俺はおまえのを舐めてみたいんだ」
 しんと部屋が静まり返り、弟が息を止めたのがわかる。それからため息も。
「ねえ、兄さん……、正直今、そういう気持ちになれないのわかるだろ」
「わかるけど、なんでだ? どうしてずっとおまえのを舐めさせてくれないんだよ。せめてきちんとした理由くらい教えてくれ」
 いつもはこれを聞くと、大抵アルは逆に俺を捕まえて自分のいいようにやり尽くし、そうこうしてるうちに俺も思考力が乱れ、結果全てうやむやなまま終わってしまう。けれど今の俺はほんの少し息が荒くやや熱っぽいが冷静で、アルフォンスはもっと冷静なはずだ。だから今日こそは答えてもらう。
 そう考えて相手の無言にずっと耐えていたら、とうとうアルは自白した。
「だって、今があまりにも幸せなんだ」
「うん……?」
「僕は自由に何でもやれる体があって、兄さんにも好きなだけ触れて、兄さんとは両想いで、今日だってこうして、誰にも邪魔されずに二人っきりで過ごしてる。……それだけで、十分かなと思うから」
「だから?」
「兄さんからあれこれしてくれるのは、そりゃあ嬉しいし、想像しただけでドキドキしちゃうよ。イヤなわけじゃない。でも、すごく幸せだからこそ、いっぺんに全部経験しなくてもいいんじゃないかなと思うんだ」
「イヤじゃないのに?」
「僕、美味しい食べ物が食事に出てきたら、最後まで取っておくタイプなんだよね。……兄さんは僕にとって、最高のご馳走でかつてない程高級なデザートなんだ。もったいなくて、一口では食べたくない」
「デ、デザート?」
「兄さんは隅々まで美味しいとわかってるけど、ゆっくり堪能したいんだ。そういう理由だから、まだ早いと思うんだよね」
 アルフォンスの言う言葉の意味を考えるにつれ、眉間に皺が寄ってきた。
「えぇえ……でもそれって、俺本人の欲求はまるごとスルーしてねぇか? 俺はずっと待ちぼうけ食わされて、ヨダレたらたら垂らしたままの状態なんだぜ?」
 こうしてる今だって、垂涎しすぎてマイ摩周湖が作れそうだ。
「でも兄さんさ、僕とこうなるまで、したいのを必死で我慢するって気持ちになったことなんてないんじゃない? 僕はそういう自分を乗り越えて今ここにいるから、いっそ兄さんもしばらくは『待て』を覚えてもいいんじゃないかと思うんだけど」
 ふふふと笑っているらしいその表情が声色に現れているので、暗闇で見えなくても十分想像がつく。
「なんだとっ。それじゃあ俺はこの先も、おまえが『いいよ』って言うまで、ずっとこのままおあずけってことかよ! そんなの、じょ、冗談じゃねぇぞ!」
 叫ばずにはいられなかった。なんという不利。ていうか不公平だろ、これ!
「まあこの話はまた今度ね……」
「今度っていつだよ!」
「……おやすみー……」
「なあおい、アル! アルっ!」 


 アルフォンスのすごいところは、目を閉じると結構あっという間に眠れてしまうところだ。
 しかも寝ていても何故かガードが堅いので、幼いあの頃眠ったきりだったこいつに好き放題できたのがまるで嘘のように、ちょっとでも自分の急所に危険が及ぶと両手両足が飛び出してきて未だに俺を排除しようとするのだ。完全に無意識で鉄壁を築かれてしまうと、俺はもう太刀打ちできない。
 何がなんでもアルが熟睡する前に、その気にさせなくては。
……でもどうやって? 
いやいや、簡単に諦めるな。考え続けろ、俺。必ず打開策はあるはずだ。思考を止めるな――!


 十分後。


 二十分後。



 さらにその後――



「俺、これなら毎日でも、ごっくごく飲める! アルの、最高に美味い!」
 そうガッツポーズを決める俺の目の前で、魅惑的な股間を思い切り開いた赤ら顔のアルフォンスが、確かにこれも高タンパクだから栄養の一種には違いないけど、でも……と、とても納得のいかない顔でブツブツ呟いている。

 ……という夢で目が開いた。
 目覚めてみると、俺の両手はしっかりと、アルの聖なるエクスカリバーを立体的に握った形になっていた。
 そして弟は既にベッドから消えていた。

開かれたカーテンから、爽やかで健康的な青空が輝いている。当然今日も、いつもどおりの登校日だ。



「え、エアちんこ……っ」



 俺はがっくりとベッドの中で項垂れた。




 ……せめて今のが正夢になりますように。




おわり。












「できなかったら、飲めないもん。」は、
ひとりじゃ飲めないもん★」「ひとりじゃできないもんv」の続編でした!
2011年春コミ用の無料配布本でしたが、震災の影響で、実際は
2011年5月のスパコミで配布した作品です。
在庫を全て配布し終えたので、我々のHPへ遊びに来てくださっている読者様へも
感謝を込めて、特別にネット公開することにしました。

高校生兄弟を楽しんでいただけたなら嬉しいです^^

にくきゅう。ぽむ

*この本はアル(直)、エド(叶)、表紙(染)でした!