ひらけた視界に映ったのは、確かに建物の外だった。
 そのバルコニーからはオレンジの照明で明るく照らされた中庭が見えた。しかしこれを中庭と呼べるのか首を捻りたくなるほど広大だ。サッカー場一つ分ほどのパティオを中心に、他の部屋がぐるりと円周上に建っている。スペイン風の中庭にはプールや噴水、木陰の横にあずま屋と、どこかの公園並に様々なものが配置されていて、くつろいでいる女性らしい人影も数人見える。バルコニーから身を乗り出すようにしてエドワードは下を見た。二十メートル真下は大理石の歩道になっているらしい。飛び降りたら間違いなく即死だ。左右を見ても伝っていけるような他の出窓は一切ない。上は夜空しか見えず、幽閉状態になったことを痛感させられただけだった。
「――そんなに身を乗り出すと危ないよ」
 唐突に掛けられた言葉に、エドワードは息が止まりそうになった。
 まったく気配すらない状態で突然背後から抱きしめられたのだ。声の響く位置からして、随分背の高い男だった。
「やっ……、離せ!!」
 あまりの恐怖感に震え始めた体を否応なしに知り、気づけばがむしゃらに暴れていた。片手が男の頬を軽く引っかく手ごたえがあり、当然相手が怯むかと思いきや、短く呟かれた。
「山猫のようだ」  
 ひょいと腰を抱き上げられ、エドワードはバルコニーからどこかへ運ばれようとしていた。肩の上でもなお抵抗し続けているうちに奥の部屋へと連れられ、今度は唐突に下ろされた。そこが完璧に整えられた巨大なベッドの上だと気づき、ぞっとした。頭上に引き上げられたこちらの両手首を易々と片手で操りながら、相手の男が今にも覆い被さってくるのが見える。エドワードは叫んだ。
「嫌だ――嫌だあっ。離せ、男に犯されるなんて冗談じゃねぇ!」
「これから何をされるのかよくわかってるね。……あ、そうか」
 男の手が背筋を這い、衣服の上から双丘の割れ目へと指先を差し込んでくる。柔らかなベッドの中でエドワードは激しく震え、青ざめた。
「女官達に……ここもきれいに洗われたんだ?」
 先程の行為を思い出させるように男は囁き、優雅に微笑んだ。
「多分潤滑用の香油をたっぷり塗り込まれたはずだよ。……痛み止めもね。だから心配しなくても大丈夫、いきなり乱暴にして壊したりしないよ」
 エドワードを風呂に入れた女官たちは恐ろしく怪力だった。数人によって全身を押さえつけられ、服を剥ぎ取られたあと、否応なしに体を洗われた。その時、あろうことか腸内に細いチューブを差し込まれ、数回に渡って体内も洗浄されたのだ。四肢を拘束された格好でエドワードは屈辱に泣き喚いた。いくらそちら方面に疎いエドワードにも簡単に想像がついたからだ。これらは男に体を拓かせるための用意だということを。
「嫌だ! 離せ! 俺はっ……、俺は男娼じゃねぇ!! ノーマルなんだ!」
「……もしかして、誰にも抱かれた経験がないの? こんなに綺麗な顔をしているのに」
 腰の奥に触れていた指先がそこを優しく撫でてくる。総毛立ちながらエドワードは首を振った。
「やめてくれ! 俺、フツーの男なんだよ! こんな目にあわされるくらいなら舌を噛んで死ぬ! ここで死人を出したくなかったら、俺を解放してくれ! イギリスへ帰してくれ!」
 エドワードが両足をばたつかせながらそこまで言い切ると、漸く男は動きを止めた。
 先程までエドワードの密やかな部分に触れていた位置から離れ、ゆっくりと引き上げると、その腕でこちらの片腕を捕まえた。双方の手で目の前の青年の手首を押さえてから、じっと瞳を覗き込んだ。
「君、イギリス人なの? 僕の母親もそうだった」
「――え? ……あっ」
 薄明かりの中で近づいていた男の瞳を確認し、エドワードは思わず声を上げた。今更のように理解したが、相手が喋っているのはアラビア語でもフランス語でもなく、自分と同じ英語だ。
 暢気に声をかけてきたのは、先程大広間で見た男に違いないのだが、そのときは距離がずっと離れていた上こちらも動転していて瞳の色など認識できるわけがなかった。それに先程の彼は頭にしっかりと布を巻きつけ、毛髪を一筋残らず隠しており、それだから当然生粋のベルベル人だろうと思いこんでいた。
 だが、今の男に被り物はなく、その頭部は短い金髪だった。それどころか瞳の色まで揃っている。
 金の髪に金の瞳だった――まるでエドワードのそれと一致するのが、偶然にしては出来過ぎている。
「――あんたもイギリス人なのか!?」
 唐突にされた不躾な質問にもかかわらず、タシフィンの王子は優雅に答えた。
「僕の父は生粋のシャウィーア人だ。母は外交官の娘として幼い頃にこちらへやってきて、パーティで父に見初められプロポーズを受けた。彼女はイギリス国籍を捨て、シャウィーア人として最後まで生きた。だから僕もこんな見かけだけど生まれも育ちもここなんだ。僕自身、シャウィーア人としての誇りを持って生きている」
「最後まで……って」
「もう彼女はいないよ。僕が十歳の頃に亡くなった」
 寂しそうに眉を寄せる姿に、思わずエドワードは同情して言った。
「そうか……それは残念だったな。……でも随分以前に亡くした割には、あんた、英語の発音が綺麗だな」
「イギリスに住んでいた頃から母の身の回りの世話をしていたひとが、母なき後も、僕の面倒を全て看てくれていたんだ。結局その人から徹底的にクィーンズ・イングリッシュを叩き込まれたよ」
 会ったばかりの青年に身の上話を聞かせつつ、王子は考えを少し改めた。
 当初はわざと抵抗してこちらの加虐心を煽っているのかと思った。簡単に体を許す行為に飽きてくると、多少は嫌がってくれたほうが面白いこともあるのだ。だが彼は違っているらしい。
「……そんなに僕に抱かれるのは嫌? 怖がらなくても平気なのに」
 前屈みになった男はそう言いつつ青年のまなじりに唇を寄せた。びくりとエドワードは震えたが、そこに溜まった涙を吸い取られただけだった。
「女相手にやるようなこと……俺にするな! とにかくこういうことは、基本的に男同士でやることじゃねぇ!」
 知らぬ間に泣いていたことに気づき、エドワードは顔を真っ赤にした。男に犯されそうになって泣いただなんて、一生分の恥を今かいているような気がする。
「……今のキスのこと? 両手が塞がっているからハンカチを差し出せなかった」
 見下ろされたまま告げられ、そうなると拘束された状態でいるのはどう見ても良い状況には思えなかった。
「とにかく手を離してくれって」
「もう引っかかないと約束してくれるなら」
 赤線のできた頬を見せられ、なぜこんなにしっかり拘束されているのか理由がわかった。
「……ごめん、さっきは悪かった。……もう暴れないから……だから離せ」
 愁傷気味に謝罪すると漸く両手が自由になる。途端にぱっと身を起こしてエドワードは背後に後退った。丸いベッドにはヘッドテーブルもなく、これ以上後ろへ下がればそのまま床へと転げ落ちるところまできて身の安全を確保したところで、相対する王子はその様子を眺めながら面白そうにベッドの中央で胡坐をかいた。無理矢理捕らえようという気持ちはないらしい。
 とりあえずは無事でいられることがわかったが、それでもエドワードは安心する気になれなかった。
「金貨の入った皮袋三つ分できみは取引されたんだ。……もっと簡単にわかりやすく言えば、ドイツの最高級グレードの乗用車一台分の金額で僕がきみの身柄を貰い受けたということだ」
 王子の言葉に目を見開いた青年は、ことの重大さに青ざめた。
「何を言ってるんだ、俺を奴隷商人から買い取ったとでもいうのか」
「その言葉は間違いでもない。僕がその金額を支払わなければ、他の宮殿に住む王のところへ差し出されていたか、最悪売り手が見つからない場合、臓器売買用に捌かれていたと思うよ」
「臓器売買!?」
「こちらでは珍しいことでもないし、僕は慈善事業をしているつもりはない。自分の興味をひくものしかお金は出さないよ」
 アルフォンスの言葉は毒のようにじわじわとエドワードの脳裏へ染み込んだ。
 トラブルに巻き込まれた自分は、あの男たちの手によってここにいる王子に売られたらしい。しかも途方もない金額が動いていて、正式な取引だったことを暗に示唆している。
「じゃあ……俺がその金を払わないかぎり、あんたはここから俺を解放する気はないってことなのか」
「……払えるの? 全額を今すぐに」
 いかにも楽しげに尋ねられ、エドワードは口を引き結んだ。そんな金など、今の会社に前借で借金できるはずがないし、そもそもどれだけ長期間勤めようとも、イギリスの退職金制度はとっくに廃れている。――ではどうする?




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