*シルヴァーグレイ*






「変わったことは何も?」
「ああ、いつも通りだ。本日の配達分、チェックしてくれ」
 淡い金髪と翠の瞳が美しい副館長、アリア・リンクは渡された書類全てにきちんと目を通し、鉄の馬から降りたばかりの青年に笑顔を向けた。
「相変わらず速達便の名に恥じないわね。あなたが時間通り予定を守ってくれるおかげで、私たちBEE-HIVE(ハチノス)は信頼され続けているのよ。……今日もお疲れ様。これで本日の業務は終了です」
 彼女の唇から、柔らかく心地良い響きを持って労いの言葉が出ると、彼の一日は無事乗り越えられたことになる。だが軽く頷き、身を翻したところで、慌てたようにアリアは付け足した。
「……ああ、もうひとつあったわジギー・ペッパー、悪いけど帰る前に寄っていって頂戴、館長からのお呼びよ」
「……館長が、何を?」
「とにかく顔を出せと、そうとしか聞いてないの」
 ある程度それは予想できた言葉だった。
 それでもあえて、アリアへ業務連絡を入れたあとは、すぐに退館するつもりだったのだ。
 その計画があっけなく流れたペッパーは、むっとした顔つきで長い廊下の先にある館長室へと向かった。
 間を置かず、短気なノックと同時にドアを開くと、薄暗く闇に染まった部屋の、窓際の大きな机にいつもの人影がなかった。
 はっとして身を廊下へ戻すより、一瞬早く現れた大きな両手が真横から青年の腕を捕まえ、部屋の中へ引きずり込んだ。
「館長……っ」
 暗い蒼の瞳が迷惑そうにこちらを眺めるのを見て、ハチノス館の長ラルゴ・ロイドは満足げに微笑んだ。
「一体いつの間に君は恩を仇で返すような人間になったんだい」
 これはいつも通り、難癖をつけようとするときの口調だとペッパーは気づいた。
「ドアの横で待ち伏せしていたような人間に言われたくない」
 背を抱き止めながらその腕で自分の手首を握る男を軽く睨んだが、解放するつもりはないようだった。
「だってさ君、あんなに豪快な鉄の馬を駆り爆音を響かせ、誰にでも君がやってきたとわかるように現れたくせに、僕のところを素通りするつもりだったろう?」
 角張った眼鏡の奥で微笑む瞳は初めて会った時から変わらぬ、銀灰の色だった。

 この男はいつもこうだ。青年とは違う時の中に身を置いている。

「俺は忙しい。あんたの暇つぶしの相手をしている時間はない」
「あの約束を守ってくれたら、すぐに離してあげるよ、薄情なジギー」
 肩のラインをもうひとつの手が滑り、腰を軽く抱かれた。
甲を軽くつねるかひっかいてやろうかと思ったのが伝わったのか、ロイドはしっかり捕まえた手首を引き寄せ、その内側に唇を押し付けた。
「ここへ君を初めて連れてきたとき、道の途中で君はこう言ったんだ、俺があんたの煙草をやめさせてやるって。……あの頃はもっと初々しかった」
 火のない葉巻を咥えたままのキスがくすぐったくなり、ペッパーは身を捻る。もっとしっかり睨みつけてやるはずだったのに、視線を合わせた途端に目元が熱くなった。
「……そんな目で見るな」
 ロイドという男は笑顔が上手い。皆がそう思っていても、一番近いところでそれを覗き込んだ自分だけは知っている。この銀灰の瞳の奥は、滅多なことでは本気で笑いはしない。
「君に会うまでの僕には、他人への余計な執着心などないものと思っていたんだが」
 それはむしろ俺の方だと青年は心の中で言い返した。
 アンバーグラウンドの中でも更に荒廃した行き止まりの街、キリエで彼に拾われなければ自分はどうなっていたか。弟や妹に顔向けのできない道へ手を染め、坂道を転がるようにどこまでも転落していくばかりだったろう。もがき苦しむこの手を掴んでくれたのは、力強い大人の男だった。
「あのとき君が嫌がったから、ちゃんと我慢してるんだ」
 ん? と、それ以降の言葉を含ませ、じっと眺め続けるだけのロイドの態度に切れたのは、結局いつも通りペッパーの方だ。
 青年は相手の唇からはみ出した葉巻に文字通り噛み付き、そのまま引きぬいて床に吐き捨てると、一瞬己の唇に留まった独特の香りに顔をしかめながら、男の首筋を両手で引き寄せた。見上げるシルヴァーグレイの双眸が、まるで今夜の流星のように淡く滑らかに視界を埋め尽くす。重なりあった吐息と共にしっとりと触れてきたものは、大胆には振舞おうとしなかった。優しいだけの口付けを、繰り返し、繰り返し施すと中を確かめるようにゆったりと舌が忍び込んでくる。若いペッパーは焦らされるのが辛くなり、更にぎゅっと両腕でロイドを求めた。閉じた瞳の奥にまで、星が散るような気分になる。甘く、ほろ苦いものが、口内で溺れた数だけ胸の底へこぼれ落ちた。

 この男に出会った当時、まだ子供だった自分は背伸びをしていた。憧れを全て注ぎこむように告白し、大人の男らしい答えをもらった。

『――そんなもの、やめろ。口が寂しいなら、俺が煙の代わりにあんたを退屈しないよう、ずっと楽しませてやる。考えてもみろ、将来肺を壊すより、今俺の相手をしたほうが余程マシだろう?』

 そう言って誘うと、ラルゴ・ロイドはその時初めて、未だ誰も知らない表情を浮かべた。

『本気かい? 僕は執念深い性格だから、君が拒否しなければその言葉をずっと忘れないよ』

 記憶の中の男は以来あの時と変わらぬ銀砂の瞳を細め、深い微笑みと共に、今でも目の前にいる。
 この特別な笑顔を知っているのは自分だけだと、青年は自己満足に浸りながら蒼い瞳を閉じた。






「夕食は一緒に食べていくだろう? ……なんなら泊まっていったって」
 白いワイシャツの襟を崩し、腰に給仕スタイルのエプロンを巻いた男はうきうきとした表情で聞いてきた。
「……食ったら帰る」
 ペッパーは短く言うと口を噤んだ。
 ロイドの家へ来たのは久々だった。
 口付けの余韻に浸っている間に誘われ、つい頷いてしまったことを後悔したが、今更嘘だとも言えずに仕方なくついてきた。
 郵便館のすぐ近くに歴代の館長用として用意されている一軒家は家族向けの広さだったが、ひとりで住んでいる割によく手入れがされている。
 台所から男は小さな鍋を運ぶと、火の灯ったストーブにそれをかけた。長い柄の、使い込まれた木のスプーンでゆっくりかき混ぜると、辺りは少しずつ甘いシチューの匂いが漂いはじめた。諦めの吐息と共に、青年は手袋と帽子にマフラー、そして制服の上着を脱いだ。テーブルの横に荷物を置き、席に着くと、待っていたかのようにグラスワインを目の前に置かれる。
「……俺は帰ると言ったんだ」
「これは五年前の、あの奇跡的な実りの年に収穫された葡萄から作られ、世のソムリエたちに『天の恵みの一滴』と賞賛されたものなんだ。……旅の途中で見つけて以来、ぜひ君と味わいたくてとっておいた一本さ」
 綺麗に揃った長い指の先で、ついとこちらへ押され、近づけられたブルーグラスの中で、適正な温度で程良く寝かされていたのであろう、赤葡萄色した液体は穏やかに揺れた。
 そのままロイドはまたストーブの鍋へと戻ってしまい、青年は暫くの間葛藤した。郵便館へ置いてきた鉄の馬に乗らずに自宅へ帰るには、ジギー・ペッパーの借りているフラットはやや遠く、不便なのだ。
「さあ、猫舌の君をびっくりさせない程度に温めたから安心していい」
 悩んでいる間に、スープ皿に湯気立つ食事がたっぷりと注がれ、絶妙のタイミングでペッパーのところへ運ばれた。小さなテーブルは二人の食事であっという間に埋まり、ロイドも向かいに座ると、グラスを傾けてこちらへ手を伸ばしてくる。
「ひとりで飲むには勿体無いと思わないかい?」
 ここで断ることもできると、一瞬だけ青年は考えた。しかし憎らしいほど今夜の食事は魅力的だった。
 気づいたときにはグラスを取り、相手のものと軽く触れ合わせて、双方で音を響かせたあとだ。
 複雑な心境を抑えつつ口に含んだワインは、過去に飲んだどんなものより美味かった。これは確かにロイドの言うとおり、滅多に手に入らないであろうと思われる程特上の味がした。とはいってもそんな上等なものは到底、自分の今の稼ぎから支払える金額ではない。比べているのは全て、この男から奢ってもらったときの記憶でのみだ。
「……いただきます」
 ペッパーは匙を取り、一口二口と食べ始めた。毎回感心することに、ロイドの手料理は意外と上手いし、予告通り熱すぎることもなかった。一日の疲れに気づくのはこうやって、胃の腑に温かい食べ物が染みていく瞬間だったが、今夜はそこに貴重なワインも加わって、全身の温度がすぐに上昇した。
「……つい勧めてしまったけど、そういえば君はあまりアルコールに強いタイプではなかったか」
 シチューのお代わりを空にした後、三杯目のグラスワインを舌先で舐めるようにして味わう青年を、正面から無遠慮に眺めながらロイドは頬杖をついた。例の乗り物のせいもあり、いつもは人を寄せ付けない雰囲気のペッパーも、今日は古巣へ戻った雛のように従順だ。頬を少し赤くして、焦点の定まらない瞳でぼんやりと男を見返してくる様子はどこか頼りなくさえ感じられる。
「……あんたは、いくら飲んでも酔わないんだったよな」
 上目遣いで尋ねられ、ロイドはにやりと口端を上げてみせた。
「そう。けれど脳はしっかり酔っているはずだからね、場合によっては何をするかわからないよ、今の僕は」
 そう呟き、そっと手を伸ばすと青年の頭へ指先を送る。艶のある栗色の髪をゆっくりと梳いた。最初の指通りはうっとりするほどだったが、いつも帽子から出ている部分だけは激しい風に晒されているせいで乱雑に絡まったようになっている。できることならこのまま一緒に風呂へ入って洗ってやりたいとこっそり男は考えたものの、翌日正気に戻ったペッパーに撲殺されるのはさすがに勘弁してほしかった。
「……ジギー……?」
 何度となく頭を撫でてやるうちに、青年の上半身はゆっくりとテーブルへ倒された。瞼を開くことができなくなったペッパーは、自分を呼ぶ声に一応答えようとしているものの、意味のある言葉にはならなかった。
 ロイドはそっとその体を抱き上げ、揺らさないように気をつけながら寝室へ連れていった。靴を脱がせ、腰のベルトを緩めてから上掛けをかけてやる。幼い子どものように全てを預けて寝入った青年の姿に、再びじっと視線を注ぎながら男はため息をついた。

「こうでもしないと君はゆっくりしていってくれないからね。……お休み、ジギー」

 そっと囁き、額に唇を押し付けると、隣で男も目を閉じた。






 翌日、見慣れた寝室の景色が目の前に広がることで、ペッパーは自己嫌悪の心境だった。
 せめて自分はソファでと思っているのに、気づけばいつもこの男に抱きしめられたまま朝になっている。特に、最近は必ずこの態勢だ。
「……おはよう、ジギー」
 密着したまま腰を抱く両手を外そうとした途端、頭上から声がした。背後からこちらへ覆いかぶさるようにしていた男はぎゅうっと青年の体を拘束した。
「……俺はあんたの抱き枕じゃない……」 
 低い声で唸ると、ぱっとロイドは両手を緩めた。
「シャワーを借りる」
 起き上がりながら側に目線を走らせ、脱がされた靴と革ベルトを発見する。立ち上がるついでに拾い上げ、背後を見ずに部屋を出た。  
 風呂場でバルブをひねり、熱い湯を出した。裸になって水を浴びながら夕べを回想すると、情けなくて項垂れるほどの心境になっていることに気付かされる。

 ……ここには来たくなかった。

 一体彼にとって自分はどんな存在なのか、ペッパーには推量するすべがない。時々思い出したように呼び出され、夕べのような口付けを交わすものの、それ以上の関係になったことはなかった。
 けれど二人きりの時間は、まるで恋人に与えるような待遇を受け、朝はあの体から仄かに香る男の匂いに包まれて目が覚める。
 その度に愚かな幸福感で眩暈がした。

 かなわぬ願いに身を焦がす、そんなことの無益さになど、とうに気づいている。

 何時まで経っても大人の態度を崩さないあの男、ラルゴ・ロイド。

 どれだけ待っても彼が、自分の望む本当の気持ちを汲んでくれるはずはないと、繰り返し失望するのが嫌だった。だからなるべく会わないようにした。それでも夕べのように誘われてしまえば、つい相手の言いなりになっていて、気づけばまた同じことを苦々しく思う朝が、こうしてやってくる。

 何度も石鹸を泡立て、できるだけこの家の香りをそぎ落とすように洗い立てた後、ペッパーは何事もなかったようにしっかりと制服を着直した。
 今度こそ、この家を出たら毅然とした態度でいようと、心に誓いながら。





 郵便館の前で別れた青年を見送り、ロイドはまた無意識に葉巻を探している指先に気づかされた。それがいかにも物欲しそうな仕草に感じられ、自分自身で苦笑いする。

「堪え性のない……これじゃあまるで、今すぐ僕のところへ戻ってきてくれと言ってるようなものじゃないか」

 もうけして振り向くことのない後ろ姿を、ずっと目で追いながら口にした言葉の真実を知る者は、まだ誰もいない。 





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(20110627〜28) 


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