2.




 ふふ、と、腕の中の女は悪戯めいた顔をして笑いをこぼした。
「……なんだ」
 怒らないでね、と、赤毛の彼女はウィンクしてくる。
「……本当に初めてだったのね……キスはあんなに上手かったのに」
 正直言ってあまり褒められた発言ではなかった。
 青年はやや失望感をもって起き上がろうとしたが、マニキュアに彩られた女の細腕がそれを許さない。
「あん、だから言ったでしょ、怒っちゃやぁよって。……ねえ、キスして」
 首筋に絡められた掌の力に引き戻され、青年はじっと女を眺めた。濃い化粧をしているが、年増と言うほどの女盛りでもない。せいぜいロイドより数歳程度上というところか。白い肌の上には自分がつけたのではない口付けの痕が薄く残っていて、大きくて柔らかな乳房の先と同じ色になっていた。開かれた両足は、男の体を受け入れた格好のままだ。混じり合った体液の匂いが下肢から汗の感触と共に上ってくる。
「んっ」
 唇の奥へ舌を挿し込むと、鼻にかかった声で女が応えた。火照る肌がうなじにつけられた甘い香水を漂わせ、青年の鼻腔をやんわりと刺激する。やや経って、唾液を舐めとるようなキスに満足したのか、目元を赤くした女は深い溜息をついた。
「だって私、この道のプロなのよ。あんたの体が他人の肌を知ってるかどうかなんて、自然に分っちゃうの。……ねえジギー、別にセックスが上手くなかった、という意味じゃないのよ。……あんたの触りかた、キスと同じでとても優しくって好き。きっとどんな子だってこんなふうに大事に扱ってもらえたら、一瞬であんたに溺れちゃうわ」
 アンバーグラウンドの南部に位置する、この人工的に作られた村には男性がいない。生活に困った親が見目良い娘を連れてきては金と交換して去っていく。少女達は大人の女から徐々に客の扱いを教えられ、初潮が始まって間もなく最初の客を取らされる。成人するまでに馴染みの客が買い取ってくれれば晴れてここを出られるが、大抵の女はそのまま残り、ある程度の年齢まで仕事を続けた後、新人教育係や雑用係へと役割を変えていく。ここはそうやって、男達が落とした金だけで成り立ち続けている場所だ。
 彼女たちの元へはたくさんの男達からの手紙が届く。人気の高い女たちが受け取った数を競いあえば、当然その数はエスカレートした。通常よりずっと高額な速達も、ここに住む女たちにとっては日常茶飯事な郵便物だ。しかしここでもやはり、郵便配達人はあまり歓迎されてはいなかった。
 そんな中で、ペッパーに毎回声を掛けてくるこの女は珍しい存在だった。
「……俺なんかを相手にして、本当によかったのか」
「何いってんの、襲ったのはあたしだし……なによりも、初めての女にしてもらえて得しちゃった。それに無理矢理あんたをあたしの部屋へ引っ張り込んだんだから、ジギーが上のお役人に怒られる心配なんていらないわ。……じゃあこれ、今度こそ、改めてお願いね」
 裸のままで、肌が全て透けて見えるネグリジェを羽織った女が、テーブルの上に置いてあった速達を手渡した。確認したところ、とっくに封をされたものだった。
 書きかけだから終わるまで部屋で待ってて頂戴と、当初はそういう話だったのだ。
「母宛てよ。……どうやら今、死にかけてるらしいの」
 鞄にしまい込もうとした時にそう呟かれて目を上げると、側の椅子に腰掛けた女は肩をすくめてみせた。
「せっせと仕送りして、兄弟達を学校に行かせてやったあたしに感謝してるって手紙をもらったの。ずっと返事を書かなかったら、今度は自分の寿命をちらつかせて、あたしに懺悔したいって。……今更虫のよすぎる話だわ」
 俯く彼女の顔はランプの明かりから外れていて表情が見えない。その口調は案外穏やかで、女が長い間ずっと考え続けたことなのだろうと思われた。
「……どんなに人でなしだろうが、親はいないよりはいたほうがいい。……怒鳴り合いでも殴り合いでも、できるのは生きた人間同士の間だけだ」
 青年はぽつりと言った。こちらを見返した女は、そうね、と、一言呟き、困ったような微笑みでくしゃりと顔を歪ませた。
「生きているうちにこの手紙が届くといいんだけど。……でも、読んでくれなくってもいいわ。……書くだけ書いたらすっきりしちゃった。ジギー、あんたなら必ず届けてくれるって分かっているから。……母さんのところへ届けてくれるだけで、私には十分なの」
 部屋の入り口まで見送ってくれた女は、名残惜しげに青年の頬にキスをした。
「また来てね。あんたなら、いつだってただでいいわ」
 ペッパーは結局返す言葉を何も選べず、彼女の家を後にした。




 こういうことに興味がないわけではなかった。
 それどころか会って間もない頃、ペッパーはロイドをそれとなく誘惑したことさえある。
 だがやんわりと、そして完璧に、青年は男に拒まれた。
 どうして、と不思議に感じてペッパーは聞いた。彼は幼い頃から整った顔立ちをしていると言われ、キリエから去る少し前まで、沢山の男や女から誘いをかけられていた時期があり、断るのは骨が折れたほどだった。
 男達の中の幾人かは随分強引に交渉しようとさえした。相手にしようとしないペッパーの禁欲さに彼らは激情し、もみ合いになるほどの事件沙汰にもなった。その時薬で正気を失った男が馬乗りになって押さえつけ、まだ青年前だったペッパーの顔を斬りつけたのだ。すぐに助けられたのが幸いし、損傷したのが薄皮一枚のところで、奇跡的に右目の視力は無事だったが、そのかわり頬には大きな傷跡が残った。幸か不幸か、目立ちすぎるその傷痕のおかげで箔がついたように扱われ、後々は危ない輩を自然と遠ざけるのに役立った。 
 その経験上、自分が誘えば誰もが頷くものなのだろうと、ペッパーは漠然と考えていたのだ。
「傷ものじゃその気にはなれない?」
 ペッパーが頬の傷をさして聞くと、ロイドは目を瞬かせた。
「傷物ってどこが? この薔薇色をした柔らかいほっぺたのことかい? これは男の勲章って言うんだよ」
 そう言いながら抱きしめられ、頬や瞼に口付けられた。
「じゃあ、どうしてだ」
 くすぐったい感触にじっと耐えながら尋ねると、突然ぎゅっと抱きしめられる。
「今、君がどんなに全てを納得づくで僕とそういうことをしたとしてもね、その行為はただの『大人の暴力』になってしまうんだよ。何も知らない君へ、僕が自分勝手に教えてもいい権利なんてものはない。……子供は自分自身の力で大人になるものであって、誰かの手で、強制的に大人にさせられるものではないんだ」
 ロイドの身体は大きく、まだ成長期の途中だったペッパーはすっぽりとその抱擁に包まれていた。暖かい感触と体温にほっとするほど、目の前のこの男は自分にとって安心できる相手だ。運命すら感じた出会いだった。なのに、子供から抜け出ていない自分では、対等に吊り合わないと言われてしまったのはショックだった。
「僕は身勝手な大人は大嫌いなんだ。だから自分もそんな大人になりたくない。君はきみだけのものであって、誰かに奪われてもいい、そんなちっぽけな存在ではないんだ。……僕のためにも、君は正しい経験を経て、心豊かな大人になってほしい」
 その説得は壮大すぎて、ペッパーにとっては一言も反論できることはなかった。
 しかし気づけば、あれから一体何年が過ぎたことだろう。
 ペッパーはもうじき成人となる。
 速達専用だったこの仕事も、いずれは限界がくるのだ。
 この先自分はどうしたらいいのだろう。
 何よりも現役を退いた場合の職種は多岐に分かれているぶん、ロイドの側に、今のように頻繁には顔を出せなくなるかもしれない。
 できるだけ顔を見なくて済むようにしていても、会わないことと会えないことは全く違う。
 その時が来てしまったら、自分は平静な気持ちでいられるかどうか、正直なところ自信はなかった。






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(20110704)


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