3.




 行きつけのバーはロイドにとって隠れ家的存在の、随分小さな店だった。
 時折ふらりと立ち寄っては好みの酒を軽く嗜む。
 ありがたいことに、そこはなかなか気の利いた店で、すっかり顔見知りの関係になったあとも、店主は殆ど話しかけてこなかった。つまり客のことをあれこれ他人にばらまくタイプではないので、ロイドも気兼ねなく店へ寄ることができるのだ。
 遠方への長期出張を終えた日の夜、最後に立ち寄ったのはいつものバーだったが、カウンターに先客がいるのを知り、何気なく相手を確認したロイドは思わず両目を瞬いた。
「ドクター?」
 思わず声を掛けられた方、サンダーランドも驚いている。
「館長、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ」
 ロイドは隣に腰掛けつつ、一応の許可を求めた。
「ゴーシュと待ち合わせをしていたのだったら遠慮するけど」
 特定の名前が出た途端、サンダーランドは赤面して俯いた。
「……いや、今日は違う。……私ひとりだ」
「そう。じゃあ一杯だけ付き合わせてくれないかな」
 先客が飲んでいたものと同じものを頼むと、程なくしてウイスキーが目の前に置かれた。指先に触れるグラスを手首で揺らし、鼻腔を刺激する琥珀の香りを楽しむ。
「ドクターはよくここに?」
「……たまに。この店はいい酒が多いし、考え事をするにはもってこいの空間だからな」
「ああ、まったく。……そういう意味では今日はお邪魔虫で申し訳ないね。……これがゴーシュなら話は別だったろうけど」
 からかわれるのにあまり慣れていないらしく、サンダーランドは眼帯のない側の瞳でじろりとこちらを軽く睨んできた。
「……館長にあれを見られたのは一生の不覚だったな」
「まあ、ゴーシュと君のためにも当分貝になろうとは思っているけど、いつまでもアリアに隠し通せるとは考えないほうがいい。そのうちゴーシュが君の家に押しかけ女房みたいに棲みつくんじゃないかと僕は予想しているよ」
 思わずウィスキーを吐き出してむせたサンダーランドはひとしきり咳き込んでから、情けない声色でもう勘弁してくれと呟いてロイドを笑わせた。
「あながち僕の思い込みとも言い切れない……と、思うがね?」
「まさか。あいつは妹を幸せにしてやることで頭が一杯なんだ。私のことなんて二の次さ」
「シルベット嬢もずっと子供のままじゃない。大人になれば好きな男と暮らすだろうし、そうなれば自由になったゴーシュは手がつけられなくなる。僕は予言してもいい。彼に惚れられた君はもう、何処にも逃れられない。必ず捕まって最後には、ゴーシュの思いのままにされるだろうね」
 はっきりと言い切ったロイドの言葉に対し、サンダーランドは無言のままじっとグラスへ視線を注いだ。しかしその表情は険しいものではなく、けして嫌がっている素振りには見えない。
「……今のは酔っぱらいの戯言だと思っておく」
「おや、とことん弱気だね」
「……誰かと幸せになる未来があるなんて、そんな選択肢については一度も考えたことがなかったからな。……慎重にならざるを得ない」
 恋人は細菌と死骸だと堂々と宣言していた彼にとって、生きた人間との付き合いは未だ戸惑う部分があるのかもしれない。 
「……そういうあんたこそ、最近何かあったのか」
 ふとこちらに話しを振られ、サンダーランドに聞き返した。
「何かって何が」
「いや、実は気になることがあったんだ。だから今日館長に会えたのは丁度良かった」
 気になること? と、オウム返しに呟くと、博士は眉間に皺を寄せ、声量を更に抑えて言った。
「猛禽のマスターこと、あんたの秘蔵っ子だった青年だ。……本当に知らないのか?」
 聞き捨てならないキーワードにぴくりと男の眉が動く。
「あの子が何か?」
 未だに庇護者として扱っているのだろうかと、一瞬だけサンダーランドはペッパーを哀れに思った。
「鶯谷へ二日前、予防接種に出かけた。あそこはやっかいな場所だから、私は住人の健康チェックのため、頻繁に往診している」
 正式な名称ではないが、その呼び名で殆どの男達の間では話が通っていた。鶯谷とは他人に肌のぬくもりを与え、それで生計をたてている女性たちが寄り集まり、固まって作り上げた特殊な村だ。
「家々を一軒ずつ回っている途中、聴き慣れた爆音がしたので窓から覗いてみれば、鉄の馬に跨ったBEEが女の家から去っていったところだった。気になったので後程当の女に直接聞いてみたが、彼女はその青年相手に仕事なんかしていないの一点張りで、肝心な所ははぐらかされた」
 グラスの動きが止まり、ロイドの口が閉じられた。
 あの特殊な乗り物に乗って配達をしているテガミバチはたったひとりしかいない。見間違いではないとサンダーランドは断言しているのだ。
「私はきみたちを長く見ていたから、その絆の強い結びつきを他人よりもよく知っていると思っていた。しかし近頃のペッパーはすっかりきみを避けている。それについては気づいているんだろう?」
「……まあね」
「一歩一歩を大切に積み重ねつつ、特別な時間を育てている最中のきみらは、とてもうまくいっているようにみえた」
「……今だってうまくいってるよ」
「それなら最近も、きちんとお互いのことを話し合ってきたか? ……肝心なことができてないなら、一度本音でぶつかってみる覚悟が必要だ。……もう彼はヨダカの片隅で埋もれていた貧しい少年じゃない。今はひとりの男として、あんたと対等に向き合えるはずだ」   
 これだけ言っても行動できないなら、ラルゴ・ロイドも所詮矮小な男でしかなかったということだ。
 そうサンダーランドが心に思った瞬間、隣の男は静かに席を立った。
「……そろそろ、潮時かな」
 見上げると小さな枠に縁どられた硝子の向こうにあるロイドの、銀灰に染まった瞳と目があった。
「……ここまで来て手放すのか?」
 目に見えないものの、確実に漂い始めた不穏な空気に気づき、思わず尋ねていた。
「……まさか」
 昔から喰えない性格だった男は短く答えると、不敵な笑顔で悠然と見返してきた。





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(20110723)


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