Wish
act 1
「…初めまして、ジギーと呼んでください」

 そう言って僕の前に立った彼は僕より幼く、そして傷だらけだった。
 痩せた手足の至る所に絆創膏と白い包帯。
 一番目についたのが、右目を覆うように張り付けられた頬まで覆い隠す白いガーゼ…。

「何でそんなに怪我してるの?」

 ジギーより年上とはいえ、僕もまだその頃は子供だったから、空気を読む、なんてこと、出来るわけがなかった。
 その場にいた周囲の大人たちの口元が歪み、すぐにそれは曖昧な笑みへと変わった。

「…ロイド坊ちゃん、それは…」
「転んだんです」

 強い語気をはらんだ、凜とした声だった。
 代わって答えようとした大人の声を遮って、真っ直ぐに、ジギーが僕を見て言った。
 それ以上その事に関して聞くな、と、覆い隠されていない左目で訴えて。
 一瞬で、気圧された。
 自分よりも明らかに年下なのに。
 どう見ても転んで出来た傷なんかじゃなかったのに。

「そう…転んだんだ。じゃあ君の初仕事はその怪我を治すことだね」

 そう言ったら、周囲にいた大人たちが一瞬目を見開き、僕を凝視した。

「ロイド坊ちゃん、初仕事ということは、その…つまり、この子を雇うと…?」
「僕の自由にしていいんだろう?だったら怪我が治るまでここで治療を受けさせる。話はその後だ」

 ジギーは病弱でほかの子供と一緒に遊んだり出来ない僕の遊び相手に雇えばいい…と、父親が送りつけてきたモノだった。
 表向きは大会社の経営者だが、裏では口に出してはいえないような事にも手を染めている…そんな父親の裏の顔があることも、不幸なことに僕は既に知っていた。
 だから、ジギーがそんな父親の裏の事情絡みでここに居るんだろうということと、遊び相手に雇われて働かなければ済ませられない事情があるのだろう…ということも何となく分かってしまった。

「…つまり、俺はあなたの命令に従えばいい…ということですか?」

 ジギーが僕を真っ直ぐに見つめたまま、問いかけてきた。
 その瞳には、何者にも屈しない強い意志が滲んでいた。
 怯えも怒りも媚びる色さえなかった。
 僕をその瞳に捕らえた、最初から。
 たぶん僕は、この時からもう、ジギーに惹かれていたんだと思う。

「強制はしないよ。でも、とりあえず怪我を治す事が最優先。お腹減ってない?君はもっと食べた方が良さそうだ」

 そう言って手を差し出したら、初めてジギーの警戒心に満ちた表情に戸惑いの色が浮かんだ。
 差し出された手に、どう対応すればいいのか分からない…そんな感情が見て取れた。

「僕はロイド。これからよろしく…って言う意味で握手したいんだけど、いいかな?」
「え…俺と?」
「そう、君と」

 にっこり笑ってそう言うと、不意にジギーが僕から視線を外して俯き、おずおずと手を差し出した。
 よく見ると、僅かに髪の隙間から見える耳の先が赤く染まっている。

 ひょっとして、照れてる!?

 そう思ったら、今まで気圧された気になっていたモノが一気に払拭されて、ジギーが可愛く見えてきた。
 差し出された手をギュッと握ると、その体に一瞬ビクッと震えが走り、なんだか小動物に触れた感じと似ているなぁ…と思った刹那、ジギーのお腹の虫が小さく鳴いた。

「…っ!」

 息を呑んだジギーの手が、一気に熱くなる。
 慌てたように引っ込めようとしたその手を、僕は逆に思い切り引き寄せた。

「うわ…!」

 僕の方へ一歩踏み出したジギーの体を抱き寄せてみると、思っていた以上に軽くて、細い。
 その細さに、どうしようもなく庇護欲がかき立てられた。
 
 うん、やっぱすごく可愛い。

 照れと羞恥とでこれ以上ないほど赤く染まったジギーの顔を間近で見つめ、改めてそう思った。
 その、はずだったのに。

「ロイド様、いい加減起きてください!」

 バタンっ!と、遠慮の欠片もなく叩き開けられたドアの音と、不機嫌極まりないこの声音…。

「今日は朝一に役員会議だと言ってましたよね?」
「この散らかした書類は…会議用のじゃないですか!」
「うわ、こんな所にまた靴下を脱ぎ散らかして…!」

 機関銃のようにそんな小言をそこかしこで振りまきつつも、神業とも言うべき素早さできっちり部屋を片づけながら近寄ってきた物体が、無情にも手荒く布団を引き剥がす。

「ロイド様、おはようございます」

 一気に降り注ぐ、閉じた瞼の裏側にも突き刺さる殺人的な朝の日差し。
 うっすら開けた視界の先には、空恐ろしいほど冷たい視線で見下ろしているのだろう、逆光を受けたジギーのシルエット。

「…可愛くない」
「は…?」
「昔はあんなに可愛かったのに…」
「ロイド様?寝ぼけてるんですか?」
「夢なら醒めないで欲しかった…」
「ってことは、起きてるんですね!?」

 その言葉と同時に冷たい指先が襟首に差し込まれ、むんずとばかりにパジャマごと引き起こされた。

「僕は犬や猫じゃないんだけどな?」
「犬や猫と同等の扱いがご希望なら、そのように処置しますが?」
「あー…それはどうかなぁ…」
「嫌なら人間らしく顔を洗って服を着替えてください!」

 呆れたようにそう言い捨てたジギーがクルリと背を向ける。
 シャツ越しに朝日に透けたその躯は、昔はあんなに細かったのが嘘のように、今では僕より筋肉がついてたくましい。
 でも。

「ジギー」
「はい?なんでしょう?」

 呼べば必ず振り返り、僕の顔を真っ直ぐに見つめる仕草は昔のまま。

「洗面に眼鏡忘れた、手」
「…忘れたのなら持ってきますが」
「小さい頃はよくやってただろう?」

 近眼な僕は、眼鏡がないと周囲がぼやけてがよく見えない。
 小さい頃は、よくこのパターンでジギーに手を引いてもらって洗面まで歩いていったものだった。
 今朝は初めて会った頃の夢を見たせいだろうか、自分でも笑えるほどワガママだ。
 ベッドの端に腰掛けて手を差し出すと、ハァ…という盛大なため息とともにジギーが僕の方へ少し屈み込んだ。

「一度聞きたかったのですが、眼鏡がないとどれくらい見えないんですか?」
「あー…この距離でもちょっとジギーの顔がぼやけてて、よく分からないかな」

 ちょっと嘘をついた。
 屈み込んで僕を見るジギーの顔は、割とはっきり認識できる。

「…そうですか」

 そう言ったジギーの顔に、ホッとしたような表情が浮かんだ。
 あれ?この場合相変わらず面倒な人だとか、困った人だとか、呆れたような表情になるんじゃないの?と、思ったりもしたが、素直に僕の手を取ったジギーに引かれて立ち上がると、もうその表情を伺う術はない。
 だけど…。
 今ではほぼ同じくらいの背丈になった、目の前にあるジギーの首筋が、どう見ても赤く染まっている。
 さっき襟首を掴んだ時には冷たかったはずのジギーの指先も、ほんのり熱くなっている。

 え…ひょっとして…?

 浮かんだ疑惑を確かめたかったのに、同じ室内にあってドア一枚引き開ければいいだけの洗面までの距離は、はっきり言って短すぎる。

「はい、着きましたよ。さっさと顔洗ってください!」

 ぶっきらぼうに言い放ったジギーが、僕を洗面の鏡の前に立たすと、あっさりと手を離した。
 だけど、ドアの方へ向き直る瞬間、鏡越しに垣間見えたジギーの顔は、耳まで真っ赤に染まっている。
 盛大に水を出し、その水音で誤魔化すようにして、たまらずブッ…!と吹き出した。

 なんだかなぁ…もう。

 笑いをかみ殺しながら顔を洗い、眼鏡をかけてドアを開けると、いつものポーカーフェイスなジギーが出社用にきっちり整えた書類を鞄に詰め、ベッドシーツを取り替え終わっていた。

「さっさと着替えてください!朝食はもう準備できてますから!」

 僕が脱ぎ捨てていた靴下と丸めたシーツを両手に抱え、ジギーが慌ただしく部屋を出ていこうとする。

「ジギー」
「はい?なんですか?」

 律儀に立ち止まったジギーが、いつものように真っ直ぐに僕を見つめる。

「前言撤回。やっぱりジギーは変わらず可愛いよ」
「っ!?」

 みるみるうちにジギーの顔が真っ赤に染まる…はずが、飛んできた丸まったシーツの白い壁に阻まれて、僕はそれを確認する事が出来なかった。

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