Wish
act 5
 次の日の朝、あまりの目覚めの良さに自分で驚いた。
 ベッドに入ってからもいろいろなことが頭をよぎってなかなか寝付けなかったから、たぶん寝たのは朝方だったはず。
 それなのに妙にはっきりと、目が覚めた。
 時計を見ると、まだ朝の7時過ぎ。

 いつもジギーに起こされる時間だったから、なるべくゆっくり来る…と言ったジギーは、きっとまだ来ないだろう。
 彼に起こされることなく起きるなんて…今まであっただろうか?
 どれだけジギーに依存していたのか改めて思い出されて、苦笑がもれる。

 ベッドから抜け出して顔を洗い、適当に服を着て、なんとなく部屋を出た。
 無駄に広い屋敷に続く廊下は長く、廊下に沿って配された大きな窓からは明るい朝日がサンサンと降り注いでいる。
 年季の入った古い洋館…ここは、僕を産んですぐ亡くなった母親の持ち物だった。
 僕には母親との思い出も記憶もほとんどなく、病弱だったという母親の体質を受け継いだこの体だけが唯一、母親との繋がりを感じるくらい。
 滅多に屋敷を訪れることのない父親とも、それと同じくらい関係は希薄だ。

 幼いころは病弱な僕の面倒を見るため、数人の使用人が入れ代わり立ち代わり出入りしていた。
 落ち着くことのないその人の出入りは、ジギーと同じく父親絡みで事情のある大人たちばかりだった。
 発作を起こしては倒れる僕を、周りの大人たちは憐れんでくれつつも世話ばかりかかる厄介な子供…と思っているのが丸わかりで、最初は悲しかった。
 でもそのうちに悲しい…なんて感情すら薄れていって、僕は常に曖昧な笑みを浮かべ、大人たちの考えを先読みするような狡くて聡い子供になった。
 周りに迷惑をかけ、厄介者扱いされるしか能のない子供なんて、そのうち居なくなる。
 憐れんでもらえる子供のうちに僕の人生は終われるはずだ…と、そんなことを算段して。

 1階に降りると、やはりジギーはまだ来ていないようで、人の気配がない。
 数人いた使用人も今ではジギーだけで、時々ハウスクリーニングを頼む以外、人の出入りもなくなった。
 差し込む日差しの明るさに誘われて庭へと出ると、雲一つない鮮やかなライトブルーの空が広がっていて、しばらくその清々しさに立ち竦んだ。

 こんな風に庭に出て空を眺めるなんて、何年振りだろう?
 今まで自分がどれだけ余裕のない生活を送っていたのかを自覚しつつ、大きく伸びをして深呼吸する。
 その時感じた胸の違和感に、眉間にしわが寄った。
 最近時々感じるようになった、覚えのある違和感。

 …定期健診サボったの、やっぱまずかったかな?

 昔のような薬漬けの毎日からは解放されたけれど、無茶をすれば発作が起きる可能性があるからと、ドクターから急な発作が起きた時用の薬を渡されていた。
 いつもはペンダント仕様になっている専用のピルケースに入れて、身に着けている。
 今日は昨夜寝る前に外して、ピルケースはベッドのヘッドボードに置いたままだ。
 仕事の日なら迷わず取りに行っているところだけど、今日はダラダラ家で過ごすと決めた休みの日。
 2階の部屋まで取りに行くのも億劫でそのまま放置しておくことにし、ふと目に入った庭の隅にある物置がひどく懐かしくて、そっちの方に意識が向いた。

 小さい頃、大人たちの目から逃れてジギーと二人、物置の中に入り込んでは遊んでいた。
 何をして遊んでいたのかあまり記憶はないけれど、まるで監視されている様だった大人の目がないだけでとても居心地が良かったのは覚えている。
 でも、いつの間にか行かなくなった。
 理由は…なんだったろう?昔のこと過ぎて記憶が曖昧だ。
 物置のドアを開けると、かつてはあった遊べるだけの空間はどこにもなくて、天井いっぱいにいろいろなものが詰め込まれていた。
 その下の方になんだか見覚えのある落書きが描かれた段ボールを発見し、迷わずそれを引っ張り出すと埃を払い、リビングへと持ち込んだ。

 広いフローリング張りのリビングには、ほとんど見ることもなくなって飾り物と化したテレビと、背もたれを倒せばベッドにもなる大きめのソファーベッドだけ。
 ソファーの上に陣取って、フローリングの上に段ボール箱の中身をぶちまけた。
 出てきたのは、紙飛行機やいろいろな形に折られた折り紙、あやとりの紐、落書きだらけの画用紙、クレヨン、色鉛筆、原形をとどめていない粘土細工、そして…数冊の薄っぺらいフォトアルバム。

「…ああ、これ…」

 手に取ったフォトアルバムに、忘れていた思い出が蘇った。
 出入りの激しい使用人の中に一人、珍しく若くて写真好きな女の人が居た。
 その人が居たのはほんの数か月だったけれど、その間に撮った写真を屋敷を出る日に渡してくれたのだ。
 年齢が若かったせいもあったんだろう、他の大人たちと違いその人は僕とジギーに気さくに話しかけてくれた。
 大人だけど大人じゃない…そんな中間的な存在に興味を持ったのを覚えている。

 薄っぺらいアルバムだったけれど、当時の僕とジギーを写した写真はこれだけで、とても貴重なはずだった。
 なのにどうして、物置のこんなガラクタ入れの中に入れたままになんてしていたのか…。
 何か理由があったような気がするのだけれど、思い出せない。
 もやもやした思いのままアルバムをめくると、幼いころのジギーと僕がたくさん居た。
 相変わらず僕は嘘くさい笑みを浮かべていて、何だか哀しい気分にさせられる。
 反面ジギーはいつものクールな無表情…なんだけど、写真をめくるうちに気が付いた。
 写真の日付順に、だんだんとジギーの目つきが鋭く睨み付けるようなものへと変わっていっているような…気がした。
 そしてほんの数枚だけど、写真が抜き取られたようになくなっている。
 昔見たとき、そこには確かに写真があったような気がするのだけれど、どんな写真だっかたまでは覚えていない。

「うーーーーん…」

 定かではない記憶を辿ろうとしたけれど、力尽きてソファーに身を沈めた。
 降り注ぐ暖かな日差しに、やはり寝不足だったのだろう…瞼が重く下がってきて、いつの間にか眠ってしまったようだった。


「…さま、ロイド様!?」

 遠くでジギーの焦ったような声が聞こえた気がして、身じろいだ。
 だけど、瞼が妙に重くて目を開ける気になれないでいると、バタバタと慌てたような足音と共にすぐ近くでジギーの声。

「ロイド様!?」

 聞こえたその声があまりに悲痛で切羽詰まっていて、何事かと目を開けた。
 すると、目の前いっぱいに、今にも泣きだしてしまいそうなジギーの顔。
 驚いて目を見張った。

「な…に?」

 思わず口をついて出た疑問符に、目の前にあったジギーの顔が一瞬、クシャリ…と泣き笑いのような微妙な表情を浮かべたと思った次の瞬間、

「あなたは、何してるんですか!?」

 思い切り怒鳴られて、訳が分からなくなった。

「なに…て、僕はただ寝てただけで…」
「寝るのはベッドの上だけにしてください!」
「え…と、これも一応ソファーベッドだったと…」
「そういう問題じゃありません!!」

 悲痛な声と悲痛な表情でそう言ったジギーが、ソファーの端にあった僕の腕を掴んでその上に顔を伏せた。

「…また発作が出て倒れたのかと…!」

 その言葉に、ハッとした。
 今でこそ滅多に発作が出ることはなくなったけれど、それ以前はよく急に倒れこんでは伸びていた。
 幼いころは周囲の大人たちが、ジギーが来てからはずっとジギーが、僕を救ってくれた。
 今みたいに。

「…そっか、ごめん」

 僕の腕をつかんだジギーの指先が、かすかに震えている。

「ジギー、ごめん」

 心からの謝罪を繰り返しながら体を起こし、腕の上に伏せられたジギーの頭に額を寄せ、声に出せない言葉を呟いた。

 ごめんね、僕はちゃんと覚えている…苦しい時、いつもジギーが側にいた。
 『死ぬな!』と、僕をあっちの世界から引き戻してくれた。
 ジギー、君は大人になる前に人生を終わろうと算段していた僕の計画を、変更せざる得なくしたんだ。
 早く死ぬことしか考えていなかった僕の中に、生きてみたいという思いを植えつけた。 
 僕は、君に生かされてここに居る。

「…重い」

 不意に聞こえたジギーの声に、ここぞとばかりにジギーのつむじ辺りにくっつけていた額を上げる。

「嫌だな、僕の感謝の重みじゃないか」

 今呟いた心の声とは裏腹の、軽い口調と笑みで自分の中に湧き上がった衝動をごまかした。
 毛先はちょっと堅いけど、根本は意外に柔らくて温かい…その髪にキスしてみたかったとか…そういう衝動。

「そういう感謝はいりません…!」

 僕の腕から顔を上げたジギーの表情はまだ少し怒っていて、僕は浅くため息を吐きながら起き上がり、ソファーの上で胡坐をかいた。

「えー…じゃあどういう感謝の仕方なら許してくれるのかな?」
「ですから、感謝とかそういうのはいりません」

 憤慨したようにジギーが言う。

「じゃあ、なに?」
「勝手にベッドから出ないでください」
「へ…?」

 一瞬意味が分からなくて目を瞬き、理解した瞬間たまらず笑い声をあげた。

「ぶ…!あはは!ちょっと待ってよジギー、それってまるで一夜を共にした後の会話じゃないか…!」
「な…!?」

 目を見開いて固まったジギーの顔が、瞬間湯沸かし器みたいに真っ赤になる。
 それがまた可愛くて、妙にツボにはまって笑いが止まらない。

「だ、誰がそんな意味で…!」
「や、分かってる…!分かってるんだけど…!くく…、あはは…!」

 腹を抱えるようにしてひとしきり笑って、さすがに今のは悪かったか…と顔を上げると、意外にも穏やかな顔つきのジギーが居た。

「…まったく、あなたは」

 呆れたような声で言う声音にも、不機嫌さは微塵も感じられない。

「あ…れ?笑ったこと、怒ってない?」
「もういいです。ここで勝手に寝てたことも。…久しぶりでしたから」

 勝手に寝てた…て!それ、ジギーの許しがいるわけ?と半分呆れつつもその言葉尻に首をかしげた。

「久しぶり…て?」
「…あなたの笑い声」
「!」

 意表を突かれた。
 自分が声を立てて笑っていなかったことを指摘されたことと、目の前のジギーの顔に穏やかな笑みが浮かんだこと。
 そんなジギーの笑みの方こそ、久しぶりだ。

「ジギーの方こそ」
「え?」
「…いや、いい」

 小さく頭を振って、ジギーにそのことを自覚させるのをやめた。
 ジギーが笑わないのは、僕が笑わないからだと、分かっているから。
 もうこの先、二度とジギーが僕の前で笑うことはないと、知っているから。

「…ところで、このガラクタはいったい?」

 ようやく足もとに散らばるガラクタの山に気が付いたようで、ジギーの顔が一変して不穏さを見せた。
 きっと、後の掃除のこととか考えてるに決まってる…そんな表情。
 それでいい…と思った。
 さっきの笑みは脳裏に焼き付けたから、もう、僕には必要ない。

「あぁ、それ?さっき物置で見つけたんだ」
「物置…!?」

 ハッとしたように目を見開いたジギーが、僕の顔を凝視した。

「え…?なに?」
「…どうして、物置なんかに?」
「いや、久しぶりに庭に出たら目に入って、なんだか懐かしくなってさ」
「…それだけ?」

 問いかけるジギーの視線に、何か探るようなものを感じる…気のせいだろうか?

「…うん、そうだけど?」

 そう言うと、どこかホッとしたような顔つきになった。

「あそこは埃だらけですからね…あなたの体にいい場所じゃありません。用があるなら言ってくれれば取ってきますから」

 暗にもう行くな…と言われているような気がして、あれ?と思う。
 確かに埃とか吸いこんで咳き込むと、それが発端になって発作が出ることもある。
 ジギーの言うことは正論なんだけど、何かが引っ掛かる。

「でも昔はあそこに入り込んで二人でよく遊んでたじゃないか」
「…そうでしたっけ?」

 既にガラクタの片づけに入ったジギーは、床に散らばったものを拾い集めるために背中を向けていて、その表情までは分からない。

「そうだよ。あと、この写真なんだけど…」
「写真…?」

 ジギーが振り返るのを感じながら、見ながら寝入ったせいでソファーの背もたれと体に挟まれていたフォトアルバムを引っ張り出した。

「ほら、ここ、写真が抜けてるだろ?これってさ…」

 言いかけて、不意に聞こえたゴトン…ッと言う音に顔を上げた。
 振り返ったジギーが、せっかく拾ったガラクタを手から滑り落として写真を凝視して固まっている。

「ジギー?」

 不審げに問いかけると、ハッとしたように慌てて落とした粘土細工らしき塊を掴み上げた。

「…すみません。あんまり古い写真だったので、ちょっと驚いただけです」
「…それだけ?」

 さっきのは、そんな理由で取るリアクションとはちょっと違うような気がする。

「…それだけです」

 そっけなく言って再びガラクタの片づけモードに入ったジギーは、こちらを見ることを避けている様に感じた。
 ジギーがそんな態度を取るのには、何か理由があるような気がする。

 …なん…だっけ?

 必死に記憶を辿ってみるけれど、物置に関する記憶が霞がかかったようにはっきりしない。
 ガラクタ集めに集中することで何かを誤魔化しているようにしか思えない、ジギーの背中。
 僕の方を見ようとしない、ジギーの態度。

 なんだろう…モヤモヤする。
 ああ…違う、イライラ、する。
 あれ?こんなこと…前にもあったような…?

 胸元あたりが急に息苦しくなってきた気がして、苛立ちがさらに悪化する。
 湧き上がった感情そのままに勢いよくフォトアルバムを閉じた途端、その風圧に弾かれた様に何かの破片みたいなものがヒラ…と床へと落ちた。

「?」

 ソファーの上から屈みこむようにしてその破片を指先でつまみ上げ、視界へと入ったそれは…。
 引きちぎられたとしか思えない、写真の破片。
 半分に引き裂かれたジギーの顔の一部。

「あ…っ」

 ドクンッと、胸の中で嫌な音がした。
 急激に胸元にせり上がってきた、不快感。

 …っ!思い出した…これって、あの時の…!

 グラリ…と体が揺れてゆっくりと床へと落ちて行くのが分かる。
 落ちるって分かってるのに、どうして体が動かせないかな?
 そんなことを頭の中で考えながら感じた、床に落ちた衝撃と胸に走った激痛。

「ロイド様!?」

 すぐ側に居たはずのジギーの声が遠い。
 いつもの発作だと分かっているから、無意識に胸元に手が伸びる。
 だけど、いつもはそこにあるはずのペンダント型のピルケースがなくて、更に息苦しさに拍車がかかった。
 胸の痛みもいつもの鈍痛レベルじゃない、激痛レベル。

 …あぁ、そうだ…あの時もこんな風に…

 薄れていく意識の中で、物置で起きた出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
 今まで忘れていたのは、僕が意識的に忘れたからだ。
 あの時感じたあの感情を、思い出さないために。




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