Wish
act 6
 あれは、ジギーが僕の所へ来て1年くらい経った頃。
 たまたま見つけた物置の小さな空間に、二人でよく忍び込んでは遊んでいた。
 そこには大人たちのまるで監視するような視線がなくて、ちょっとした解放感みたいなものがあって…お気に入りの場所だった。



「うわ、結構いっぱい撮ってたんだな」

 ジギーと一緒に物置に入り込み、ついさっき今日で辞める…と挨拶に来た使用人から貰ったばかりのフォトアルバムを広げた。
 その使用人は他の大人たちと違って年齢が若く、大人と子供の中間みたいな感じの気さくで明るい写真を撮るのが趣味だという女の人だった。

「…そうですね」

 何だか少し不機嫌そうなジギーの声に顔を上げると、その声音通りの顔つきで僕の顔を見据えていた。写真じゃなく。

「?ジギーって、写真嫌いだった?」
「…いえ、別に」
「じゃあなんで写真見ないの?」

 ほら!とばかりにアルバムを掲げ上げると、フイ…と顔をそむけてしまう。
 ふざけてるのか?と思って面白半分にほらほら…!とそむけた顔の前にアルバムを掲げていたら、バシン!とアルバムを払いのけられてしまった。
 そのはずみで、アルバムの中から数枚の写真がバラバラ…と床に散らばる。

「!?ちょ…っ、なにするんだ!?」

 さすがにちょっとムッとして言い募ると、キ…!とばかりに険しい視線で睨み返された。

「楽しいですか!?」
「え、」

 苛立ちを含んだジギーの声の険しさに、とまどった。

「あの女に写真を撮られるのが楽しいなら、俺を辞めさせて代わりにあの女をもう一度雇えばいいでしょう!」
「は?」

 意味が分からない…というのが顔に出ていたんだろう、ジギーの視線が更に険しさを増した。

「自分から話しかけるくらい気に入ってたんでしょう!?今まで他の大人たちに興味なんて持たなかったくせに!」
「…え?」
「写真なんて今まで撮ったこともなかったくせに…!」
「それは…!」

 言いかけて、言葉が止まった。
 自分でも気が付いていなかったけれど、確かにジギーの言うとおりだった。
 出入りの激しい大人たちになんて興味は全くなかった。
 写真にしても、自分で撮ったことも、ましてや撮ってくれと頼んだこともなかった。
 だけどあの女の人に関しては、自分から声をかけ、写真を撮ってくれと頼んだ。
 ジギーと一緒に撮ってくれ…と。

「それは?なんですか!?」

 僕の言いかけた言葉を言及する様にジギーが言い募る。
 今にも泣き出してしまいそうな顔つきで。
 その時に、気が付いたのだ。
 これはジギーの嫉妬だと。

「…ジギー、ひょっとして、僕のこと好きなの?」

 聞いた途端、ジギーの顔が真っ赤になった。

「そ…そんなわけ…!」
「じゃあ、なんで顔が赤いの?」
「あ、赤くなんてなってない!」
「赤いよ」

 一気に形勢逆転とばかりに、今度は僕がジギーに詰め寄った。

「嘘だ!!」

 そう言い放ったジギーが逃げるように背中を向け、僕の視界から顔を隠してしまう。

「嘘って何?嘘ついてるのはジギーじゃないか!」

 素直に好きだと認めようとしないジギーの態度に苛立って振り向かせようと肩に手をかけると、その手を勢いよく振り払い、足元に散らばっていた写真を掴んで急に振り返ってきた。

「うるさい、うるさい…!こんな写真なんか…!」

 ジギーが手にした写真は女の人も一緒に写った写真で、真ん中に女の人、両脇に僕とジギーが写ったものだった。
 その写真に両手をかけたジギーが、女の人を引き裂くように真っ二つに引き裂いた。

「な…っ、」

 思わず息を呑んだ僕の前で、ジギーの指先が更に細かくその写真を引き裂いていく。
 血の気がスゥ…と引いた気がした。
 今思えばその時のジギーの行為は、見透かされた悔しさと嫉妬による子供特有の衝動的なものであって、意味なんて特になかったんだと思う。
 だけどその時僕もまだ子供で、そんな事なんて理解できなかった。

 僕が女の人に声をかけたのは、ジギーと一緒に写真を撮ってほしかったから。
 今まで撮ろうとも思わなかった写真を撮りたいと思ったのは、ジギーと一緒に居た思い出を残しておきたかったから。
 もしも僕が死んでしまっても、ジギーに僕のことを覚えていて欲しかったから。

 なのに、目の前でそんな思いを思い切り拒絶された気がした。
 引いていた血の気が一気に逆流するかのような怒りが込み上げてきた。
 今までそんな風に感情を波立たせることを、発作の要因になるからと禁止されていた僕にとって、生まれて初めての怒りだった。

「なにするんだ…!」

 叫んだ僕は、無意識に渾身の力でジギーを突き飛ばしていた。

「わ…っ!?」

 突き飛ばされたジギーの体が背後にあったラックにぶつかって倒れこみ、上に積まれていた段ボールや本やいろいろなものが雪崩を起こしたかのようにその上に降り注いだ。

「!?ジギー!?」

 叫んだ時、思い切り舞い上がった埃を吸い込んで激しく咳き込んだ。
 同時に、今まで感じたことがないほどの胸の痛みに襲われてその場に倒れこんでしまった。
 高ぶった感情のせいで発作が一気に悪化したのだと分かって、すぐに薬を飲んで安静にしていなければ…と頭の中では理解していた。
 だけど、目の前にある投げ出されたジギーの足がピクリとも動かない。
 ジギーの上半身が落ちてきたモノで埋まってしまっているのを見たら、自分のことなんて何も考えられなくなった。
 這いずる様に近寄って、一つ一つジギーの上にあるものをどけていった。
 息が出来ない苦しさと胸の痛みがどんどん悪化していったけれど、気力だけで意識を保っていた。
 ようやく表れたジギーの顔は、頭のどこかを切ったらしく血まみれで…。
 それを見た瞬間、僕は、初めて人の死を怖いと思った。
 生まれた時から病弱で死と隣り合わせだった僕にとって、死は日常と同化し過ぎていて…周りの大人達やジギーが「死ぬな」と言って必死に僕を救おうとするのはなぜなんだろう?と不思議にさえ思っていた。
 けれど、この時初めて、目の前で人が死ぬかもしれない…ということがこんなにも怖いことなんだと、理解することが出来た。
 それが自分にとって特別で大事な人であればあるほど、その怖さは半端ないんだということも。

「ジギー!!」

 息苦しさよりも胸の痛みよりも、怖さの方が先だって、渾身の気力を振り絞ってその名前を呼んだ。
 その声に、ピクッとジギーの体が反応し、ゆっくり開いた瞳の中に僕の顔を写し取り「ロ…イド…さま…?」と、呟いた声を聴いた瞬間のあの安堵感。
 ジギーがいつも僕の発作が治まった時にする、あの泣き笑いのような顔…きっと今僕はあの時と同じような顔をしているんだろうな…とそう思ったのを最後に、僕は意識を失った。
 次に意識が戻ったのは、3日後だった。
 目を覚ました時、僕は物置の中でのことをすっかり忘れていた。
 面会が許されて会いに来てくれたジギーの頭に包帯が巻かれている理由も分からなくて、「どうしたの?その怪我?」と問いかけてしまったくらいにすっかりと。
 僕の問いかけに一瞬目を見開いたジギーは、でも次の瞬間「…転んだんです」と、泣きそうな顔で笑って言った。
 







「…あれ?」

 目を開けると自分の寝室のベッドの上で、目を瞬いた。
 さっきまで見ていた物置の記憶らしき夢と今の状況がダブって、一瞬今がいつなのか分からなくなった。

「あ…!!」

 ハッとして起き上がり、立ち上がろうとしたら世界が回っていて、そのまま倒れこみそうなる。

「ッ、ロイド様!」

 伸びてきた腕に支えられて転倒は回避できたけれど、世界が回っている状況は変わらなくて…つい、笑ってしまう。

「はは…久々だねぇ、この感覚。世界が回ってて笑える」
「笑ってる場合ですか!ほら、ちゃんとベッドに戻ってください!」

 目を開けていると眩暈があまりにひどくて吐きそうになるから、目を閉じたままジギーの手を借りて再びベッドの中へ沈み込んだ。
 起き上がるときに見えた見覚えのある点滴の容器に、この状況をもたらした元凶を察した。
 あの主治医は僕が倒れると、ワザとベッドから出られなくしているに違いない!としか思えない薬を投与してくれる。
 今みたいに目すら開けられないほどの、世界が回る薬。
 そんな強い薬だからこそ、僕はこうして生きているわけなんだけど。

「あぁ…ドクター呼んでくれたんだ?」
「…緊急事態だったので」

 そう言ったジギーの声音に硬さを感じて、自分が死にかけた事も理解した。

「…悪いね、余計な仕事増やしちゃって」
「そういう風に言うのはやめてください…!」

 目を閉じていても、今ジギーの顔が泣きそうに歪んでいるのが分かる。
 どうしてだろうね…僕は君にそんな顔させたいわけじゃないのに。
 どうしていつもこんな風になっちゃうかな。

「ねぇ、ジギー、今って何曜日?」
「…それを聞いてどうするつもりですか?」

 ちょっと苛立ちを含んだ声に、苦笑が浮かんだ。

「嫌だな…この状態で仕事なんて出来るわけないじゃない」
「…土曜日、でした。1時間前までは」
「そっかぁ…」

 安堵した自分の声に、我ながら嫌気がさした。
 こんな状態になっても、回し始めたコマを止めようなんて微塵も思っていない自分に。
 どっちにしろ止められはしない…日曜日を丸一日寝て過ごせば、月曜日には通常通り動けるようになる。
 最後の詰めはやらなくちゃいけないから。

「…って、あれ?ということはもう真夜中?ジギー、帰らなくていいの?」
「ようやく今、目を覚ました人が言いますか?そういうこと?」
「あーはは…そうだね。ごめんねぇ、心配かけて」

 そう言って、ジギーの方へ腕を伸ばした。

「?なんですか?」
「起き上がれないからさ、悪いけど頭ここまで下げてくれるかな?」
「…またどうして?」
「いいから、いいから!」

 戸惑っている様子が漂ったけど、結局ジギーはベッドの横に膝をついてくれたらしく、伸ばした僕の腕を取って自分の頭の上に載せてくれる。
 僕は躊躇なく、幼い子供にするようにその髪を撫でつけた。
 ありがとう…ごめんね…と呟きながら。

「…っ、ロイド様、俺ももうそんな子供じゃないですから」
「うん、分かってる分かってる。だけどね、言えなかった分は言っとかなきゃ…と思って」
「…え?」
「あぁ…あった。たぶんこれだね」

 撫でつけながら探っていたジギーの頭皮に見つけた、小さな瘤のような引き攣れ。
 それを愛おしむ様に優しく撫でた。
 あの時に切った、頭の傷を。

「!?」

 ハッとしたように上がったジギーの頭を、ポンポン…と撫でつけた。

「前は3日も心配かけたんだよね?ごめんね、そんなに心配かけちゃって。それと、突き飛ばしてごめん。怪我させちゃってごめん。全部忘れちゃっててごめ…」
「やめてください!!」

 ジギーの声に遮られて、全部言わせてもらえなかった。
 頭に載せていた手にジギーの両方の指が重なってきて、指先が絡められて…それがジギーの額辺りに押し付けられる。

「お願いですから謝らないでください…!俺のせいなんです。俺が写真を破ったりしたから…!」
「そんなの大したことじゃないよ。問題は僕が全部忘れてしまったこと。すごく君を傷つけたよね…」
「違います!…俺は逆に救われたんです。あなたが忘れてしまったから、俺はここに居ることが出来た。あんな危険な状態まで追いやったのに…辞めさせられて当然だったのに…!」

 その言葉に、あぁ…そうかと思い至った。
 まだ子供だったジギーを辞めさせなければならない…ほどの危険な状態。

「…あの時、心臓止まってたんだ?」

 意識を失くした僕はその間のことをほとんど覚えていない。

「…はい」

 短く振り絞るような声で答えたジギーの、僕の手に絡んだ指先に力がこもる。
 言葉にはしないけれど、その時感じたジギーの怖さが、今の僕にはよく分かる。
 僕が目を覚ますまでの3日間、どれほどの怖さを味わっただろう。
 なのに僕はその3日間のことを何も覚えていない。
 たまらない…本当に、そういうこと一つ一つが。

「迷惑かけちゃったね…って、あれ?じゃあ人工呼吸と心臓マッサージもジギーがしたわけか。子供だったのによくできたね」

 心肺停止状態になった場合、最初の5分が生死を分けると言われている。
 あの時のジギーの状態で物置から人を呼ぶか運ぶか、どちらにしろ5分以内で出来るはずがなかった。

「…この屋敷に来て雇われることが決まった後すぐに、ドクターの指示で教えられました。子供同士で一緒に居る時の方が感情の起伏が出やすいから…と」

 ドクターだってあの頃はまだ子供の部類だったろうに…その利発性には驚かされる。
 もっとも、僕のこの厄介な体をどうにかしてくれた時だって、彼はまだ学生だったのだから頷ける話ではあるけれど。

「感情の起伏…かぁ。あぁ、じゃあひょっとして物置のこと聞いた時はぐらかしたのも、ドクターの指示?」
「はい。忘れたのはそれだけ苦しかったからだろうと…。もし思い出すようなことがあったらあの時と同じような状態に陥る危険性があるから、極力避けるようにと言われて…」

 苦しかった…うん、そうだね。
 僕はあの時、初めて死というものに恐れを抱いた。
 もしあの時知った怖さを忘れていなかったら、きっと僕は毎日死に怯え震えていることしか出来ない臆病者になっていただろう。
 でも、それだけじゃないんだ。
 僕はね、ジギー、あの時それまで無意識で気が付いていなかった君に対する思いを拒絶された…と、そう、思い込んでしまった。
 引きちぎられる写真を見た時のような…あんな血の気の引くような思いも、忘れてしまいたかったんだ。

「ドクターの予測が当たったわけだ。でも病院に運ばれなかったってことは、今回は止まったりしなかった…ってとこ?」
「はい。薬を飲んだらすぐ症状は治まりました。ですが意識が戻らなくて…それでドクターを…」
「そっか…。ん?あれ?薬…って」

 確か薬は部屋の中に忘れていたはずだ。
 だから自分で薬が飲めなくて…。

「ジギー、君ひょっとして、僕の薬持ち歩いてる?」
「っ、すみません…ドクターに無理を言ってもらっています。あの時からずっと…」
「ずっと…!?」

 驚く…というより呆れた。
 薬は携帯すると薬効が薄れるのが早くなる。
 だから3ヶ月に一度は交換する必要がある面倒なものなのに。
 あぁ…でも、今更ながらに記憶を辿ると、あまり症状が出なくなった頃…屋敷の中に居る時は今朝みたいにうっかり忘れることがあって、そういう時に限って発作がでたりした事が何度かあった。
 僕が屋敷に居る時は常にジギーも一緒だったから、ジギーが飲ませてくれて事なきを得ていたことになる。
 薬は舌下錠だから口内で溶かして吸収させるんだけど、もともと唾液の分泌が悪い僕はこれが結構苦手だ。
 なのに意識がない時とか朦朧としている時に飲ませても、うまく吸収させるのは困難なような…。
 そこに思い至って、ふと、記憶の端に引っ掛かるものがあった。
 それを確かめるべく、絡んでいるジギーの指に力を込めて軽く引いた。

「?なんです?」
「ごめん、ちょっと起こしてくれるかな?」
「え…何か用事があるなら俺が」
「…トイレって言っても?」
「あ…!すみません気が付かなくて」

 慌てたように言ったジギーに、嘘ついてごめん…と心の中で謝った。
 こうでも言わないと、起き上がることすら今の君は許してくれそうにないからね。
 ジギーがベッドの上に片膝をついて腕を引きつつ、僕の背中に腕を回してさりげなく起き上がる動きをサポートしてくれる。
 目を閉じていても起き上がるだけでやっぱり眩暈が激しくなって、頭がくらくらしてため息が出た。
 そういうのもジギーは分かっているみたいで、ふらついた僕の頭を自分の鎖骨あたりに押し付けて眩暈が治まるまでジッと動かないでいてくれる。
 そういうさりげない所、ほんと、参るんだよね。
 肌のぬくもりが身に沁みる…ていうか。

「大丈夫ですか?立てます?」
「あぁ、うん。立たなくていい。トイレは嘘だから」
「…はぃ?」

 ジギーの首に手を回し、伸び上がる様にして怪訝そうな声音を発したその口を塞いでやった。

「!?」

 驚いて反射的に離れようとしたジギーを、首に回した指先に力を込めて意図的に制した。
 目を閉じている僕が偶然そこに触れたんじゃないか…とか、そういうバカな考えを持たせないために。
 その上で驚いた拍子に薄く開いた唇をこじ開け、ジギーの温かくて柔らかい舌の感触を味わった。
 その感触と温かさに、記憶の端にあった不確かなものが明確に脳裏によみがえってくる。

「…やっぱりそうだ」

 唇を開放し、ジギーが逃げないように更に首筋に回した指先に力を込め、額と額を合わせるようにしてそう言った。
 その言葉に思い当たることがあったんだろう…驚きで固まっていたジギーの体がビクッと震えた。
 僕は目を閉じているから目の前にあるジギーの表情は分からなかったけれど、その瞳が見開かれたことは合わせていた額から感じる皮膚の動きで感じ取ることが出来る。

「…薬飲ませる時、キスしてたよね?唾液の分泌悪くて薬溶かすの苦手だって、僕が言ってたから」
「…っ、」
「でさ、僕に人工呼吸したのもひょっとしてジギーのファーストキスだったりしたのかな?なんかいろんな意味で謝ることがいっぱいだね」

 そう言った途端、不意に首筋に回していた腕を取られてベッドの上に押し付けられた。
 ベッドのスプリングが軋むほどの急激な動作で頭も揺すられて、その気持ち悪さにちょっと勘弁…とか思ってしまう。

「どうして、あなたが謝るんですか!?」

 怒気を含んだ声が上から降ってきて、ジギーが僕の上に馬乗りになっていることが知れる。
 あぁ…本気で怒らせちゃったかな?と思ったけど、きっとキスしてた?なんて聞いたところで否定されて終わるのは目に見えていたし。
 こういう場合、不意をついた実力行使が一番手っ取り早いと思っただけなんだ。
 そして実際、そうだったんだって、今の君の言葉と態度でバレバレだしね。
 だけど今、閉じた目の中でも世界が回ってて、ちょっと本気で気持ち悪い。

「あー…ごめん、今ちょっと…」

 何とか吐き気を堪えてその気持ちの悪さを訴えたら、腕を掴んでいたジギーの指先の力が緩んだ。

「…嘘をついて起き上がったりするからでしょう」

 緩んだだけで腕を放す気がないのが、まだ怒気を含んだその声音から伝わってくる。

「…そうだねぇ…」

 ハァ…と息を吐くと気持ち悪さが徐々に治まってきて、回る世界も落ち着きを取り戻してきた。

「…じゃあ聞くけど、ストレートに聞いてたら、本当の事言った?」
「ッ、そ…れは、」
「それにさ…最初に嘘ついたのは君の方だよ…?」
「俺が?」

 不服そうな声。
 あぁ…そうだね、きっともう君は忘れてしまってる。

「”…ジギー、ひょっとして、僕のこと好きなの?”」

 あの時僕が問いかけた言葉を、そのままジギーに問い返した。

「…!?」

 言った途端、ジギーが息を呑んだ気配がして、腕を掴んだ指先にも再び力がこもる。

「…覚えてた?…みたいだね」

 ジギーが忘れていなかったことを嬉しいと思った反面、あの時のことをすっかり忘れてしまった自分のことを当時のジギーがどう思ったのか…と思うと胸が痛んだ。

 「…転んだんです」と言って泣きそうな顔で笑っていた…あの時のジギーの顔の本当の意味を今まで考えもしなかった自分の不甲斐なさに、嫌気がさす。

「忘れるはずないでしょう…」

 降ってきたジギーの声がいつもよりずっと低い。

「でもその嘘をどうやってあなたに謝れば良かったんです!?そのことに触れれば、あなたがあの時のことを思い出してしまうかもしれないのに!」

 まるで言葉そのものをぶつけるような重さと切実さが滲んだ言葉に、ハッとした。
 あぁ…僕はなんてバカなんだろう。
 僕が忘れてしまったせいで、ジギーはその言葉を口にすることが出来なくなったんだ。
 だから…言葉の代わりに行動で示す以外術がなくて。
 そしてそれに、やっぱり僕は今まで気がついて上げられなかった。

「…ごめんね、ジギー」
「だから、どうしてあなたが謝るんですか!?」
「謝っちゃだめなの?」
「悪いのは俺でしょう!!」

 罪悪感に満ちた声音に溜め息が出る。
 僕なんかのために君が自分を卑下する必要なんて全然ないのに。
 それに、もうこんな風に昔のことでジギーに悲しい思いや辛い思いをさせたくない。
 せっかく思い出せたのだから、もうここで終わりにしてしまいたかった。

「…じゃあ、お互いに謝るのは無しにしようか。今までのことはお互い様ってことで」
「そんな簡単には…!」
「いいんだよ、簡単で。僕もジギーも生きてる。他に何かいる?」
「っ、い…え、他にはなにも…」
「うん、じゃあそういうことで。あと…いい加減、腕放してくれるかな?結構痛い」
「え!?あ…!す、すみません、つい…!」

 慌てたように腕を放したジギーが、今度はベッドを揺らさないようにそろりと動いてベッドの端へと移動したのが気配で知れる。
 閉じた視界の中で回っていた世界もようやく動きを止めたので、僕はゆっくりと目を開けた。
 見慣れた天井が静止していて、ホッと息をつく。
 以前だったらもう数時間は眩暈に悩まされていたのだけれど、滅多に発作が起きなくなっただけあって、耐性と体力がついてきたのかもしれない。
 ゆっくりとベッドの端で背中を向けて座っているジギーに視線を移すと、頭を垂れて両手を見つめていた。
 たぶん、思わず僕の腕を掴んでしまった事を反省でもしてるんだろう。

「ジギー」
「あ、はい!」

 名前を読んだらハッとしたように振り返り、目を開けている僕と視線がぶつかって驚いたように目を見開いた。

「え…もう眩暈が…?」
「治った。人間進化するもんなんだねぇ」

 笑ってそう言うと、ジギーの顔にもホッとしたような穏やかな表情が浮かぶ。

「良かった。ドクターもこの発作が後に響かない様なら、今よりもっと良くなると言っていました」
「そう?あぁ…でもなんとなく僕もそんな気がするな…」

 今まで何度かドクターに言われていた。
 成長するにつれ内臓器官の欠陥自体は問題視するほどのものではなくなっていること。
 なのに発作がなくならないのは、心因性によるものだろう…と。
 要は、僕の心の問題なのだ…と。

「…あの、ロイド様?こっちのソファー借りてもいいですか?」

 多分、ボー…と天井を見上げてしまっていたのだろう、僕の顔を覗き込むようにしてジギーが言った。

「え…?ソファー?」
「はい。心配なので今夜は泊まらせてもらおうかと。構いませんか?」

 視線を壁際にあるソファーに向けると、もうそこには既に枕代わりのクッションと毛布が置かれている。

「泊まるのはいいけど、あのソファー硬いよ?」
「平気です。そういうのには慣れてますから」
「慣れ…って、そんなわけないだろ。ベッド半分空けるから一緒に寝れば?」

 言った途端、ジギーの眉間にしわが寄った。

「…まったく。どうしてあなたはそういうことを平気で言いますかね?」
「なんで?嫌なの?」
「嫌だとかそういう問題じゃないでしょう」
「じゃあどういう問題?」
「…っ、だから、俺ももう子供じゃないっていうことです!」
「知ってるよ」
「え…?」
「君がもう子供じゃないことくらい、とっくに知ってる」

 真っ直ぐにジギーを見て言った。
 要は僕の心の問題…なら、もうこれからは後ろじゃなく前を。
 今までは見るのが怖かった未来(さき)を見ていたい。

「ジギーが、ずっと僕を好きでいてくれたってこともね」
「…!」

 僕と合わせた視線が解けないまま、目を見開いたジギーの顔が徐々に赤く染まっていく。

「あ、ついでに言うと、僕もジギーの事好きだから。だから大丈夫だよ?」

 自分でも驚くくらいあっさりと…しかも笑ってその言葉が出た。
 今までそれを自分の中で認めようとしなかったのは、やはり心のどこかで無意識に思い出すのを避けていたからだろう。
 言ってからしばらくの間、赤くなったまま固まっていたジギーの顔に苦虫をつぶしたような微妙な顔が浮かび、視線を逸らして片手で顔を覆った。

「…ついで…って、大丈夫…って…なんなんですか、それ…!」

 あー…、言い方ちょっとまずかった?って思ったけど、言ってしまったものは仕方ないよね。

「今更かなぁ…って思ったんだよ。でも言っておかないとジギーは一人で勝手に悩みそうだから…だから、大丈夫」
「…大丈夫って、ああ、もう!!」

 不意に語尾を荒げて言ったジギーが立ち上がり、部屋の電気を間接照明だけに落としてソファーの方へ歩き出した。

「ジギー?」
「もう寝ます!」
「え、だから一緒に…」
「嫌です!俺が大丈夫じゃありませんから!」

 僕の言葉を遮る様に叫んだジギーが、薄暗くなった照明の下…ソファーの上で毛布に包まり背中を向けてしまった。

「…ジギー?」
「…」
「ジギー、怒った?」
「…」
「ねぇ、ジギー…」
「っ、ああ、もう!」

 ガバ…ッ!とばかりにジギーの体が跳ね起きて、頭を抱え込むようにしてソファーの上で丸まった。

「お願いですから、いい加減黙ってくれませんか…!?」
「黙ってほしいんだ?」
「そうです!」
「じゃ、キスしてくれたら黙ってあげる」
「は…?」

 顔を上げ、しばらくジッとしていたジギーが盛大なため息とともに立ち上がると、再びベッドの上に乗り上がってきた。

「…あんまりからかうと、本気で襲いますよ?」

 聞こえてきた声音の低さと、覗きこんできた険しい顔つきに苦笑が浮かんだ。
 まぁ、あれで怒らない方がどうかしている。

「それはちょっと勘弁。襲う役は僕にしといてくれないかな?これでも年上なんだし」
「病み上がりのこの状況で言いますか?そういうこと?」
「この状況だから言ってるんじゃないか。だってジギーは絶対…」

 最後まで言わせずに覆い被さって来たジギーに「むかつく…!」という言葉ごと唇を塞がれた。

「っ、…ぁ、」
 噛み付くように合わさってきた唇と共に指先で顎をつかまれて、自由を奪われる。
 いきなり深く侵入してきた舌先に舌を絡めとられて、喰いちぎられる勢いで貪られて、息が上がった。
 角度を変えて、何度も貪られて、息継ぎの間だけわずかに離れる唇から漏れる水音に、酔わされた。

「は…っ、ちょ…、いきなり…ディープ過ぎじゃ…」

 もうちょっとで酸欠…!という寸前でようやく開放されて、さすがに苦しい。

「人を試しておいて…!自業自得です!」

 言い放たれて、やっぱ見破られてるなぁ…と思いつつ、笑みがこぼれた。

「…うん、ほんと。愛されすぎててビックリした」
「っ、あぁ!くそ…!本気でむかつく…!」

 僕の顔を睨み付けながら思い切りボスッ!とその顔の横に拳をのめり込ませたジギーが、不意に顔を伏せて僕の胸の上に頭を預けてくる。

「…お願いですから、早く良くなってください。俺を襲えるぐらいに」

 胸の上…ちょうど心臓の上辺りにジギーの吐く吐息がかかって、胸の中まで温かくなった。

「…分かった。約束する」

 我ながらズルイと思う。
 病み上がりで抵抗できない状態の僕を、ジギーが絶対襲えない…って分かってて誘いをかけた。
 ジギーがどれくらい本気なのか…?と、それを確かめておきたくて。

「…おやすみなさい」

 押し殺したような低い声がそう言って、温もりが離れて行く。
 思わず引き止めそうになった指先を握りこんで、まだほんのり残る胸の温もりを抱きかかえるように身じろいで丸まった。

「…おやすみ、ジギー」

 自分の声とジギーの毛布に包まる衣擦れの音が重なる。
 抱え込んだ温もりが、これから先の自分の唯一の支えになるんだろうな…と、そんなことを思いながら眠りについた。

 


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