Wish
act 7
次の日の日曜日、思っていた以上に早く回復した僕は、午前中いっぱいをベッドの上で過ごしただけで午後からは普通に起き上れるようになった。
昨日に引き続き気持ちのいい晴天だったこともあり、気晴らしと散歩も兼ねてジギーと一緒に近くの海浜公園へ出かけてみることにした。
「…あれ?そういえば仕事関係以外でジギーのバイクに乗るのって…」
バイクの後尾シートにまたがり、手渡されたヘルメットを被ってジギーの腰に手を回しながら、ふと思いついたことを呟いた。
「…ええ、初めてですね」
背中を向けたままぶっきらぼうにそう言ったジギーは、エンジンを空ぶかしして車体の調子を音で確認している。
昨夜のことはあったけれど、僕とジギーは今朝もいつもと特に変わらなかった。
多分それは、言葉にできなかっただけで、お互いの中に昔からずっとあった気持ちだったからだろう。
「そっか。ん?って言うことは初デートみたいな…?」
「…そのつもりですけど」
発進したエンジン音に紛れて分かりにくかったけれど、背中越しに聞こえたジギーの答えに、あぁ…と思う。
その声音には、今までのような照れや狼狽えが微塵もない。
公園行きを提案してきたのはジギーの方で、それはいつもの会話の中で特に違和感もなく、僕にはいつもの日常と変わりなかったのだけれど…。
外からは見えない、心の中は変わったんだと…実感した。
目的地に着くと、週末だけあって屋台もあちこちに建ち並び、家族連れやカップルで結構なにぎわいを見せていた。
「へぇ〜、これが一般的な週末の過ごし方なんだねぇ」
今までこんな場所に来たことがなかったせいもあり、物珍しさも手伝って思わずあちこちと観察してしまう。
バイクから降りたジギーは、ヘルメットを脱ぐとキャップを被り薄い色目のサングラスをかけていた。
普段滅多にそういう格好のジギーは見ないから、あれ?と思って、思い至った。
ジギーの片頬には目立つ傷痕がある。
キャップとサングラスがあれば、その傷痕もほとんど目立たない。
「…それって、やっぱ気になるもの?」
砂浜のある海岸方面へ並んで歩きながら、傷痕をチラリと覗き見た。
「いえ、一人の時なら特に気にしませんが…」
「一人の時?ってことは何?今日は僕のため?」
「…あなたに嫌な思いをさせるわけにはいきませんから」
「嫌な思い?なにそれ?」
「絡まれたり、怯えられたり、いろいろです」
事もなげに言うジギーの様子からして、それが日常茶飯事であることが伺える。
「消しちゃおうと思わなかったの?ドクターに頼めばどうとでも…」
「それはないですね」
微塵も迷うそぶりのない即答振りに目を瞬いた。
だって普通、一度くらいは考えるものじゃない?
「あなたに治してもらった傷なのに、どうして消さなきゃいけないんです?」
「へ…?」
思わず足が止まった。
記憶を辿ると、確かに毎日ジギーの傷を消毒していた気がする。
傷痕が残ってしまって、「ごめん」という言葉の代わりに傷痕をよく撫でていた…ような気も。
「それに、これがなかったらあなたとも会えなかったですし…って、ロイド様?」
足を止めてしまった僕に気が付いたジギーが振り返る。
ハッとして、僕は慌ててジギーと並んで歩き始めた。
「…それ、どうなのかな?僕と会わなければジギーは自由になれてたはずだし、傷もなくて人に絡まれたりすることもなかったわけじゃない?」
「自由…?」
怪訝そうな表情で問いかけられ、苦笑がもれた。
「面倒で手のかかる子供の世話役なんて仕事、好きで始めたわけじゃないだろう?」
「面倒で手のかかる子供…ですか?」
プ…ッと小さく笑いを耐えるようにふき出され、ちょっとムッとした。
「うわ、何その反応?」
「ああ、いえ、すみません。まさかあなたが自分のことをそんな風に考えてたなんて思ってもみなくて」
「ひど!」
「それに自由になりたい…というのなら、それはむしろロイド様の方じゃないんですか?」
「え…?」
「あなたの方こそ、好きで面倒で手のかかる子供になったわけじゃないでしょう?」
「っ、」
何だろうな、この切り返し。
今、なんかものすごくむかついた。
心の奥底でずっとひた隠しに隠していた感情を突き付けられた感じ。
何だってそういうことを、こんな風にさらっと言ってくれちゃったりするかな。
「…生意気言うね」
つい感情むき出しの不機嫌な声でそんな事を言ってしまって、たまらず項垂れて足を止めた。
「…すみません」
素直に謝られて、余計に居たたまれない気分になる。
その時、不意にゴウ…ッと一瞬体が浮きかけるくらいの強い風が吹いて、ジギーの被っていたキャップが吹き飛ばされた。
「あ…!」
思わず、その後を追いかけた。
砂浜に足を取られながらコロコロと転がるキャップを追って、走った。
多分、生まれて初めて、全力で。
「…イド様…、ロイド…!!」
ジギーに大声で名前を呼ばれ、腕を掴まれて後ろ手に思い切り引き寄せられた。
反動で、ジギーの体に抱きかかえられるようにして砂浜の上に転がった。
「痛…っ!」
「バカですか!?」
起き上がる間もなく降ってきた怒声に、はは…と乾いた笑いがもれる。
「いきなり走るとか、いったい何考えてるんです!?」
「はは…、っていうか、なにこれ?走れちゃったよ…!」
自分の胸に手をあて、まだ全然整わない息とドクドクと早鐘のように打つ心臓の感触に、指先を握りこんだ。
たかが数十メートル走っただけでこの息切れ具合は到底普通とは言えないけれど、でも。
発作の予兆なんて微塵も感じられない。
なんだろうね、これ?ほんとにドクターの言うとおりじゃないか。
「平気…なんですか!?」
半信半疑なジギーの声と共に伸びてきた腕に体を引き起こされた。
転がったせいで付いた乾いた砂が、パラパラとまだ幾分か強い風に煽られて飛んでいく。
ジギーが庇ったおかげで眼鏡も無事だし、怪我もしていない。
顔を上げると、心配そうなジギーの顔。
さっき転がった反動でジギーがかけていたサングラスはどこかに飛んで行ってしまったらしく、素顔のままだった。
「…やっぱりこっちの方がいいね」
「え?」
「サングラスもキャップも、全然似合わない」
「っ、」
ちょっとショックを受けたような顔になったその額や髪に付いた砂を、指を伸ばして払っていく。
「なんか、どさくさ紛れにバカ呼ばわりされたり、名前を呼び捨てにされたような気がするんだけど?」
「え!?あ…!」
「ま、名前の方は好きでそう呼ばれてるわけじゃないし…別に構わないんだけどね」
「…え?」
僕が言った言葉の意味を問いかけるように真っ直ぐ見つめてきたジギーの顔の…傷痕に指先で触れ、ゆっくり撫でた。
「…これ、消しちゃいなよ、ジギー。せっかく男前なんだし」
「!?」
似合わない…と言った時よりさらにショックを受けた表情で、ジギーの瞳が大きくなった。
傷つけたろうな…とは思ったけど、でも本当にそう思うから謝ったりしない。
何かを隠さないといけないような生き方は、全然ジギーに似合っていない。
「で、バカ呼ばわりした罰にジュース!ジギーのおごりでよろしく!」
「えぇ!?」
不満そうな声を無視して立ち上がり、飛んで行ったキャップの行方を探すと、海岸の端にあったテトラポットにへばりついているのが見えた。
「キャップ拾っておくから、あったかい紅茶希望!」
言い捨てて、まだ服のあちこちについている砂を払いながら歩き始めた。
背後で盛大な溜め息が聞こえ「もう走らないでください…!」とダメ出しを食らった。
返事の代わりに手を振って、今度はジギーに心配をかけない様ゆっくりと歩いて行く。
近寄ってみると意外に大きいテトラポットに驚きつつ、へばりついていたキャップを拾い上げ上へと登ってみた。
引き潮の時間帯らしく、波打ち際は結構遠い。
青い空との地平線をぼんやりと眺めていたら、不意にどこかで聞いた記憶のある声が背後から聞こえてきた。
「やあ、奇遇ですね。こんなところで君と会うなんて」
振り返る前にその声の主を思い出し、首を少しだけ傾げるようにして声の主を見返した。
「奇遇とは詭弁だなぁ。君がこんな場所に目的もなく来るわけないじゃない、ロレンス君」
黒い長髪に黒いコート、目深にかぶった黒い帽子…死神という異名が似つかわしい全身黒づくめの男…検察庁のロレンス検事。
おもに政治家絡みの贈収賄・汚職事件を担当しているが、過去の僕の父親絡みの事件では何度も煮え湯を飲まされ続けてきた経緯の持ち主だ。
「実は先ほど例のものを受け取りましてね。お礼がてら報告を…と」
あぁ…と、体ごと向き直り、意識を清々しい青い空から重苦しい現実へと切り替えた。
「律儀だなぁ。その律義さが取引にもきちんと適用されると思っていいのかな?」
「どこかの誰かのように姑息な手を私が使うとでも?」
「あはは、そうだよねぇ…。で?いつ動くのかな?」
「他の部署との足並みを揃えて、明後日の朝…というところですか」
予想通りだ。
おそらくもう、エミューも情報を得ていることだろう。
「そう。じゃ、後はよろしく」
ロレンスが立っている公園から伸びた堤防へと飛び移り、その黒い影と背中越しに対峙した。
「しかし本気だとは思いませんでしたね。君もただでは済まないでしょうに」
聞こえてきたその言葉と立ち位置が変わって眩しくなった日差しに、目を眇める。
そんな事、言われるまでもなく分かっている。
「…人の心配より自分の心配した方が良くない?ロレンス君?」
「私の…?」
意味が分からない…と言わんばかりの声音に、薄笑いが浮かんだ。
まぶしい日差しを避けるためにキャップを被って視線を上げると、公園の方からこちらに向かって歩いてくる人影に気が付いた。
「そ。取引を守らなかったら、僕も容赦しないよ?」
言いながら、近寄ってくる人影…ジギーの方へと歩き出す。
「…どういう意味かな?」
ロレンスの声音に不穏な色が滲んでいる。
それくらいもっと早く察しておかないから、何度も煮え湯を飲まされるはめになるんだよね。
「叩き潰してあげる。二度と立ち上がれないようにね」
本気だということを分からせるのに十分な絶対零度の声音を薄く笑った口元にのせ、冷えた視線を一瞬投げて、じゃーね。という意味を込めて軽く手を振った。
「っ、」
背後で息を呑んだような気配がしたけど、役目を終えたコマにもう興味なんてなかった。
ジギーの所に辿り着くと、ふ…とジギーが僕の後方へと視線を投げた。
「…誰です?」
「さあ…知らないね」
「何か話しているように見えましたが…?」
「ジギーが遅いからナンパされてたんだよ」
「はぃ!?」
一瞬にして闘気を剥き出しにしたジギーが、視線を険しくして後方を睨み付ける。
そんなあからさまなジギーの態度が可笑しくて、つい、吹き出した。
「ブ…ッ嘘だよジギー、可愛いなぁ!もう!」
「な…!あなたの冗談は冗談に聞こえません!それに、このキャップも似合いません!」
からかわれた羞恥と怒りで真っ赤になったジギーが、買ってきた温かい紅茶入りのペットボトルを僕の手に押し付け、強引にキャップを奪って自分の頭に被ったかと思うと、元来た公園の方へと踵を返して歩き始めてしまった。
「うわ、ちょっと待ってよジギー!からかってごめんって!」
「知りません…!」
「えー、お詫びに何かおごるから!ね?」
「要りません…!」
「ジギ〜〜…!」
そんな他愛もない会話と戯れを屋敷に戻るまで堪能して、明日からの現実を一刻忘れた。
これから先、今日のことを思い出すだけで温かくなれるように…と、胸の奥で密かに願いながら。
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