Wish
act 8
 次の日の朝、いつものようにジギーに起こされた僕は、出張用の小さなボストンバッグに必要なものを詰め込んで、外側についているポケットにドクターに渡す書類の入った封筒を押し込んだ。
 今日から2〜3日出張することはアリア女史に伝えてあるので、迎えの車は来ない。
 ジギーに出張先に向かう駅ターミナルまで送ってもらうことにした。

「ありがとう、助かったよ」

 駅に着き、送ってもらったお礼を言いながら、ボストンバッグのポケットに押し込んでいた封筒をジギーに差し出した。

「?これは?」
「ドクターに届けておいてくれるかな?できれば今日中に、直接、ジギーの手渡しで」
「直接?俺の手渡しで…?」

 僕の顔と封筒を交互に見やったジギーが、どうしてそんな?と言いたげな顔つきになった。

「大事な書類なんだ。だから必ず中身を確認してもらって。ドクターなら中身は見れば何かわかるから」
「…はい、分かりました。必ず今日中に届けておきます」
「あ、あと、明日いつものハウスクリーニング頼んであるから、よろしくね」
「え…」

 怪訝な表情になったジギーが僕を見据える。
 いつもならジギーに頼んでクリーニングの予約を入れてもらうから、当然の反応だ。

「たまにはジギーの手間を省いてあげようかと思ってさ」

 そう言って肩を竦めたら、今一つ腑に落ちない…という顔つきながらも頷いた。

「じゃ、行ってきます」
「はい、お気をつけて」

 踵を返して駅の中へ向かおうとしたら、不意にジギーに腕を掴まれて動きを止められた。

「っ、なに?」

 ちょっと驚きつつ振り返って問いかけると、腕を掴んだのが無意識だったかのようにハッとした顔つきで掴んでいた腕を放された。

「あ…、すみません」

 どうして掴んでしまったのか…?と自問自答する様に引き戻した自分の腕を見つめたジギーに、天を仰ぎたい気分になった。
 こういうジギーの野生の勘…というべきものは、驚きに値する。
 せっかく、いつもと何も変わらない様に別れようと思っていたのに…!
 我慢できなくなって、腕を伸ばしてその髪に触れた。
 子供をあやすようにグシャリ…と髪を撫で、最後にポン!と軽く触れて指を離す。

「じゃあね、ジギー」

 笑ってそう言うと、まるで置いて行かれる子犬のように情けない顔つきになったジギーが、「はい」と小さく返事を返す。
 君のその勘は素晴らしく当たっているんだけどね。
 でもね、そういう顔、ほんと反則なんだって。
 心の中で盛大に溜め息を吐きながら、踵を返した。
 後ろ髪引かれるとはとはこのことだな…!と思わずにはいられないジギーの視線を背中に感じながら、乗るべき列車の改札へと向かった。





 改札を通って列車に乗り、指定された座席を目指した。
 取った座席は二人分。
 席は自分で予約をしたから、間違いなく相手はそこに居るはずだ。
 その駅が始発のせいもあり、座席に座っている人影は少ない。
 目指す座席の窓際に、すでにその相手は座っていた。

「おはようございます、早いですね」

 そう言って通路側の席に身を沈めた。

「っ!?な…、ラルゴ・ロイド…!?」

 滅多にみられないだろう驚愕の表情を貼り付けたその相手…カリブス・ガラード常務に、僕はにっこりほほ笑んだ。

「急な出張を入れてしまってすみませんでした」
「は!?この出張、お前が…!?」

 エミューから情報をもらってすぐ、ガラード常務にこの出張を振り分けた。
 本当は僕が行く予定にしていたのだけど、すべてのコマを回す事にしたから急遽予定を変更したのだ。

「どうしてもあなたに行ってもらわなければならない事情が出来まして…」

 そう言うと、落ち着きを取り戻してきたのだろう…いつもの不遜な笑みを浮かべてこちらをジロリと見返してきた。

「つまらん事情だったら帰らせてもらうぞ」
「ですよね。じゃあ、単刀直入かつ、簡潔に」
「なんだ?」
「僕を、クビにしてもらえませんか?」

 極上の笑みを浮かべてそう言うと、こちらも滅多にお目にかかれないだろう唖然とした顔つきになったガラード常務が、僕をまじまじと見返した。

「クビ…!?何の冗談だ?」
「いえ、冗談じゃなく真面目な話です」
「は…!んなこと、お前の父親が許すわけないだろうが」
「ええ。ですからその父親も一緒にクビにして欲しいんです」

 そう言ったら、ガラード常務の目が射るように細くなった。

「…前々から思ってたんだが、お前、何考えてる?」

 前々から…というその言葉に、選んだ相手に間違いがなかったことを確信しつつ、エミューから買った端末を差し出した。

「モバイルは持ってますよね?これを見てもらったら大体の事情は理解していただけるかと」

 移動中の時間も無駄なく有効活用するつもりだったのだろう…すぐにモバイル端末を取り出したガラード常務が端末を差し込み、情報を開いた。
 初めは無表情だったその顔に、徐々に驚愕と焦りの色が滲んでいく。
 やがて発車を告げるアナウンスが流れ、列車は静かに動き始めた。

「…お前、これ…まさか…」

 聞こえてきたガラード常務の声と列車の走行音に震えが混じる。

「ええ、そうです。官僚と大手銀行…そして父も絡んだ汚職に関する接待及び贈収賄の証拠になりうる情報です」
「こんなものどうやって…!?いや、そんなことより、お前まさかこれ…!?」
「検察庁のロレンス検事はご存知ですよね?彼に送りつけておきました」
「な…っ!そんなことしたら…!」
「おそらく、明日の朝にはうちの会社にも強制捜査が入ります」
「おま…っ!」

 ガ…ッと勢いよく立ちあがったガラード常務の膝の上から飛び落ちそうになったモバイルを、落下寸前で受け止めた。

「まぁ落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか!」

 叫んだ自分の声の大きさに、ハッとここがどこかを思い出したらしいガラード常務が、小さな舌打ちと共に僕の方に屈みこんで声を潜めて言い募った。

「そんな事になったら会社の信用はガタ落ち、下手すれば倒産だってありうる!どれだけの社員が路頭に迷うと…!」

 その言葉にホッとした。
 この人は、自分の保身なんて考えてもいない。
 自分の事より会社の…自分の部下やほかの社員達のことを真っ先に考えられる、そんな稀有な人材だ。

「そんな事にはさせません。この出張もそうならないための布石です。この意味、あなたならわかるはずです。違いますか?」

 受け止めたモバイルを手渡しながらそう言うと、微妙にガラード常務の口元が歪み…ドサッとシートに再び身を沈めた。

「…は!そうじゃないかとは思っていたが、お前、やっぱり知っててやってたな?」
「はい。強硬なリストラで理不尽に切られたかつての主だった社員達、汚職に絡んで罪を押し付けられ失職した人…平社員の頃に営業と称してほとんどの人に会いました」
「!?、俺の部下だった頃からかよ…!」
「ええ。おかげでいろいろな話が聞けました。あなたが、理不尽に辞めさせられたかつての部下達のために再就職先を斡旋していた事とか、起業するための資金の一部を提供していた事…そして今回の出張先もあなたが資金提供して成功を収めた企業であり、今後の成長次第ではうちの会社にとって重要な取引相手になる…という事も」

「…たいした情報収集能力だ」
「起業支援の資金の出所は、汚職絡みで父が口封じも兼ねて重役たちに握らせていた金…だったんじゃないですか?」
「はらわたの煮えくり返るようなクソ金…だったがな」

 吐き捨てるように言った声音には、隠しようのない嫌悪が滲んでいた。
 会社内で力を得るためには父からの信用を得なくてはならない。
 そのためにこの人は、いったいどれほどの自分の心を殺してきたのだろう。

「…さっき見せた情報は一部改ざんしてあります。社内の重役たちに流れた金の動きの一部の消去…あなたと、ヘイズル常務の分を」
「なんだそりゃ?俺たちに恩でも売る気か?ッつか、その程度の小細工見破れないほど検察も甘かないだろ」
「司法取引ですよ。会社の倒産を避けるため、父以外の会社重役達については追及の手を緩めて改ざんにも口出ししない…国も今のこのご時世に数千人もの失業者を出させるわけにはいかないでしょう?」

 ロレンスとの取引とはこのことだ。
 身内からの告発以外父絡みの汚職を暴くことは不可能…今まで煮え湯を飲まされ続けてそれを嫌というほど思い知ってきたロレンスは、僕が持ちかけたこの司法取引を喜んで受け入れた。

「なるほどな…。で?恩を売った俺たちに何をしろって?」
「明日、強制捜査が入った後に緊急の役員会議を招集します。そこで父の解任請求と僕の解任請求をして欲しいんです。票の取りまとめは…あなたとヘイズル常務なら可能でしょう?僕はマスコミの餌食になるのは嫌なので出社はせずにインターネット会議で参加します。その後の会社代表は必然的に元専務だったガラード常務、あなたが請け負うことになる。それを引き受けていただきたい」
「は…!おいおい…ふざけんなよ。信用はガタ落ち風評被害も甚大になることが分かり切ってる会社の立て直しを俺にしろってか!?」
「あなたしか出来ないでしょう?僕が進めた買収や提携…そのほとんどの企業にあなたのかつての部下が居るはず…違いますか?」

 クッ…と押し殺したような笑い声と共にガラード常務が僕を見据えた。
 今までとは全然違う…多分、僕が今まで出会ったかつての部下達に見せていたであろう…厳しさの中に優しさが入り混じったような、何とも言えない眼差しで。

「…分からねぇな。俺なんかよりお前が適任だろうが。告発なんてしなきゃ、そのうちお前が社長になってたはずなのに、なんで…」
「それはあり得ないですね。あなた方重役達も分かっていたでしょう?僕は父方のバロールの姓を継いでいない…要はただの飾りに過ぎないって事を。だから僕に嫌がらせをしても媚びるような重役達はいなかった。ロイドの姓を僕が継ぐことが母の遺言だったこともありますが、所詮僕は父にとってただの道具に過ぎない…飼い殺しにされて終わりです」

 そう…ロイドの姓とあの屋敷を僕に受け継がせること…それが母の遺言だった。
 父と母の間にどんな確執があったか知らないが、僕を生かすことは母のその遺言に対する父の無言の反抗のような気がしてならなかった。

「だったら、お前までクビにさせずに…」
「悪いことをしたら罰を受けて当然でしょう?そんな親の元で育った世間知らずの子供にも当然ね」

 ガラード常務の言葉を遮る様にして、そんな言葉がこぼれ出ていた。
 屋敷の中から出ることすら叶わなかった無知な子供のために、ジギーは人生において一番自由で華やかであったはずの時期を棒にしたのだ。
 本当ならもっと早くに開放出来ていたはずなのに、僕の弱い心はジギーを手放すことを惜しんでしまった。
 その罪に対する罰はどれほどに値するだろうか。

「世間知らずの子供ねぇ…。そんな子供に俺はこんなめんどくせぇことを押し付けられるわけか」
「はい…。それと最後にもう一つ。アリア君なんですが、出来れば彼女が仕事を続けられるようにサポートしていただければ…」
「なにかにつけて突っかかってくる、あのアリア・リンクか…。あいつが俺の指示なんかに従うもんかよ」
「そうかもしれませんが、僕のやったことを知りあなたの本心を知れば彼女の考えも変わるでしょう」
「は…!んな簡単に考えを変えるたまかよ、あの女。そういう安直さで言うなら、お前は確かにまだまだ子供だな」

 この人にまだまだ子供だと言われると、なんだか少しホッとした。
 自分がやった事に対する責任を他人に押し付けて去ろうなんて…分別のある大人がしていいことじゃない。

「ええ。子供の時間は終わりです。あとは大人であるあなた方にお任せします。面倒で手のかかる子供は居なくなった方がいい」

 ちょうど停車駅に着き、止まった列車の動きに合わせてそう言い捨てた僕は、出口に向かうべく立ち上がった。

「それでは、後はよろしくお願いします」

 ガラード常務に一礼を返して踵を返した。

「おい」

 不意に呼び止められて足を止めた。

「一つくらい自分のワガママ通したって罰は当たらねえぞ、このクソガキが…!」

 聞こえてきた言葉に、胸を突かれた。
 叶うものならたった一つだけ、通したいワガママがあった。
 けれど、そんな願いを口にする術を僕は知らなくて…ただ無言で小さく会釈を返して列車を後にした。




 列車を降りると、タクシーに乗り換え、もうひとつの目的地に向かった。
 そこは以前に一度だけ訪れたことがあった。
 今から10年ほど前…僕が父からあの書類を買い取った、あの日に。

 町の喧騒から少し離れた静かな場所に、その教会は10年前と何も変わらぬ佇まいでそこに在った。
 生まれて間もない頃にこの教会に捨てられていたのだというジギーは、孤児院も兼ねていたこの場所で育った。
 教会の建物の奥に在る小さな二階建ての建物と小さな庭。
 そこには数人のシスターと共に、親や親類に見捨てられ他に受け入れ先のない子供たちが暮らしている。
 開かれた大きな鉄製の門扉をくぐると、手入れの行き届いた緑に囲まれたエントランスがあり、その先にこじんまりとした白い教会が建っていた。

 木製の重厚なドアを押し開いて教会の中に入ると、祭壇を囲むように作られたマリアと天使の描かれた大きなステンドグラスが目に飛び込んできた。
 差し込む太陽の光にきらめくその様は優美で荘厳で…思わず見とれてその場に立ち尽くしてまうほどだった。

「…こんにちは」

 不意に聞こえた声にハッとしてその声のした方…祭壇横にあった小さなドア付きの部屋のほうに視線を向けた。
 そこには、穏やかな笑みを浮かべた白髪の老神父が立っていた。

「あ…すみません、勝手に入り込んでしまって」
「いえいえ、ここはそんなことを気にする必要のない場所ですから…それより、あなたは…」

 ふと言葉を切った老神父がジ…ッと僕を見つめ、ふわりと包み込むような笑みを浮かべた。

「以前、一度ここに来られた方ですね?あの時は門の外からだけで、中には入ってこられませんでしたが…」
「っ!」

 思わず目を見開いて固まった。
 あんな昔の…あんなわずかな時間の出来事を、なぜ?と。
 そんな問いに対する肯定と疑問が顔に出ていたのだろう、老神父が言葉を続けた。

「やはりそうでしたか。あなたが来られた時、ちょうどこの教会の債権の持ち主が変わったという電話を受けたところだったんです。持ち主の名前を明かさない事が買い取った条件だという、とても若い方だと。ラルゴ・ロイドさん、あなたですね?」
「…そんな程度のことで分かるなんて…すごいな。まさかジギーもその事を…!?」

 あの時から知られていた事にショックを受けつつ、問いかけずにはいられない問いを口にした。

「いいえ。単なる私の憶測でしかありませんでしたし、名前を明かさないことが条件だというからにはそれ相応の事情があるんだろうとも思っていましたから」
「そうですか…」

 心底ホッとした。
 もしもジギーに知られていて、その上でジギーが以前と変わらず僕と接していたとしたら…自分の愚かさに死にたくなっていただろう。

「知られていたのなら話は早いですね。神父様に渡しておきたいものがあって来たんです」

 光の差し込む荘厳な祭壇までの道をゆっくり進んで、ボストンバッグに忍ばせていたそれを差し出した。

「これをジギーに渡しておいていただけませんか?」

 差し出したのは、この教会の債権を買い取ったあの日から今日に至るまでの、ジギーの給与が記載された通帳とキャッシュカード。
 もともとは借金返済のためにジギーの手元に渡ることなく消えていたそれは、あの日から消えることなく貯まり続けて10年以上…その額は、結構な大金になっていた。
 それを受け取り中身を確認した老神父が、ため息と共に僕を見つめ返した。

「なぜ、ご自分でお渡しにならないんですか?」
「きっと、ジギーは受け取らないでしょうから」
「それが分かっていて、どうして…」
「今の僕にできる事は、その程度のこととジギーを開放することぐらいです。教会の債権の書類は、たぶん今頃ジギーに渡っているはずですから」

 ドクター宛に届けるようにジギーに渡した書類の中に同封した…鍵付きの引き出しから取り出した書類。
 あれが教会の債権…土地と建物の権利書、そして詐欺で背負った借金を完済したことを証明する書類だ。

「それは、いったいどういう意味ですか?」

 驚いたように言った老神父に、僕は深々と頭を下げた。

「明日、あなた方を詐欺でだまして借金を背負うように画策した犯人が別件で逮捕されます。長い間苦しめて本当に申し訳ありませんでした」
「!?、ちょっとまって下さい、それはつまりあなたの…!」
「これが、僕にできる精一杯のお詫びです」

 老神父に最後まで言わせずにそう言って、踵を返した。

「…待って下さい。少しだけ、思い出話に付き合って頂けませんか?」

 そのとても静かな声音に、思わず振り返った。
 一瞬僕と視線を合わせて微笑んだ老神父が、すぐ横にあった小さなドア付きの小部屋…たぶん協会を訪れた人が懺悔をするための小部屋のドアを引き開けた。

「昔…まだ幼い頃、ここにジギーが3日間こもりっきりになって出てこないことがありました」
「え…」

 3日間?それって…まさか、と、唇が震えた。

「ジギーは小さい頃から警戒心が強くて誰にも…何に対しても信じるとかそういった考えを持つことができない子でした。でも、あなたが意識不明で倒れたと聞かされた日、自分も怪我をしていたというのに、そんなことどうでもいいと言って、ここへこもってしまった。あなたが助かる事を祈るために」
「ジギーが…!?」
「ええ。あの時は本当に驚きました。それまで何も信じず何かに祈るなんて、した事がなかった子でしたからね。しかも三日間食事もとらずに、ただじっと祈り続けていました。あなたが助かるように…と」
「っ、」

 言葉が出てこなかった。
 僕が意識のなかったあの3日間、ジギーがそんな風にこの小さな部屋の中で過ごしていたなんて…!
 小部屋の中は小さな椅子と小さな小窓だけ。
 一瞬、椅子に座るあの細くて小さかった背中が見えたような気がして、堪らず目を背けた。
 そんな風にジギーに祈ってもらえるような…自分はそんな人間じゃない。

「ジギーを変えたのは、あなたなんですよ?」

 老神父のその言葉に、胸が苦しくなった。
 変えてしまったのが僕だというのなら、なおさら、僕はジギーを手離さなければならない。

「だからこそ、僕は居なくならないと。もしジギーの目の前で僕が死んでしまったら…ジギーは一生それに囚われる。僕なんかのためにそんなことが許されていいはずがない」
「そんな…!」

 老神父の悲痛な声は聞こえたけれど、僕はもう振り返らずに教会を後にした。
 
 しばらく無言で足早に歩いて、大きく息を吐いた。
 きっと今頃は、もう、ジギーはドクターの下であの書類を見ているはずで。
 ドクターももう一方の書類…僕の屋敷をドクターに譲渡することを示した書類に気づいているはずだ。
 唯一僕が自由にできる、僕名義のもの…それが母から譲られたあの屋敷だった。
 けれどそれですら、父の威光がある限り実質自由になんてならない。
 父の持つ力の全てを無効にしない限り、不可能なことでもあったのだ。

「後は…」

 小さく呟いて携帯から電話をかけた。
 かけた相手はエミュー。
 たぶん、僕の携帯のGPSをたどってすぐ近くまで来ているはずだ。

「あ、エミュー君?拾ってくれるかな。どうせすぐ近くに居るんだろう?」
「ええ、察しがいいですね。すぐに行きます」

 そんな返事を聞いた数分後、現われたピンク色のド派手な車体の車に乗り込んだ。
 同時に携帯の電源を落とし、海沿いの道に差し掛かったとき、窓から携帯を海に投げ込んで。



 次の日の朝、ロレンス検事が予告したとおり強制捜査が入り、僕はあらかじめ組み込んでおいた社内一斉メールで緊急の重役会議を召集し、インターネット会議システムを利用してエミューの車の中から会議に参加した。
 ガラード常務とへイズル常務は滞りなく僕が示した作業を遂行してくれた。
 父と僕は解雇され、社会的な地位の全てを失った。
 笑えたのは、僕の解雇への多数決の結果に、反対が二票入れられていたこと。
 僕の解雇に反対するような重役なんて居るはずもなく、それがガラード常務とヘイズル常務によるものだと容易に知れた。
 たったそれだけの事だったけれど、自分のやったことが無駄ではなかった…とそんな風に思えて、一瞬目頭が熱くなった。

 全ての作業を終えて、エミューの車の中で座っていた椅子に脱力した。

「…とりあえず、これで終わりましたね」

 背後からかけられたエミューの声に、笑顔で振り返った。

「うん、とりあえずはね。でもまだしばらくは君に働いてもらわないといけないんだけど、その辺はいいのかな?」
「いいですよ。あなたはこれ以上ない上客ですしね。こっちも退屈しなくて楽しめるわけですから」

 ニヤ…と笑ったエミューに苦笑がもれた。
 父やその周辺の官僚たちが僕がやったことに気がつかないわけはなく、何らかの報復に出る可能性が残る。
 そうならないように出来うる限り、汚職にかかわった人間たちの権力と財力を無効にするよう手を尽くしてはいたが、どこでそれが覆されるか知れたものではない。
 だからエミューには今後もしばらくはそれらの人物たちの動向を見張り、何か動きがあるようならそれを阻止してくれる様頼んでいた。
 つつけば埃が出るような人間ばかりなのだから、エミューのハッキングの手にかかれば動向を阻止するくらいの脅しを仕掛けることくらい造作ない。

 もちろんそれに対する報酬も、以前から手広くやっている株の売買から上がる利益で十分支払っていたし、エミューが望む機器の購入やカスタマイズに関しては、条件なしで資金を提供していた。
 もともと他人の秘密を覗き見ることが趣味のような男だっただけに、それを使って脅しをかけたりするのはゲーム感覚らしく、むしろ自分から進んで僕の計画に協力してくれていると言って過言ではなかった。

「じゃ、後はお任せするよ」

 そう言って立ち上がり、足元にあったボストンバッグを手に取って車のドアへと向かった。

「これからどうするつもりなんです?」

 エミューの前をすり抜け際、そんな風に問われて思わず首を傾げてしまった。

「うーん…どうしようかなぁ…」
「ひょっとして…何も考えてないんですか?」
「ま、そんなとこ」
「あきれた…!」

 本気であきれたといわんばかりに天を仰がれて、笑いがもれた。

「だよね。でもまぁ、どこに行ったとしても君には居場所突き止められそうだし?」
「…まぁ、それは当然ですね」

 自信たっぷりに言い切られて、肩をすくめた。

「言わなくても分かってると思うけど…」
「ああ、分かってます。たとえ突き止めてもあなたの居場所は誰にも言いませんよ。あなたが望まない限りね」
「うん、よろしく」

 エミューのいいところはこういう事を何も言わなくても察してくれる所だ。
 車の後部ドアから外に出ると、エミューの車がプッ!と最後の挨拶を発して発車した。
 名残を惜しむわけでなく、あっさりと僕を残して走り去ってしまうあたり、ほんとにエミューらしい。

「さーて、これからどうしようかな…」

 肩に担ぎ上げたボストンバッグの軽さに、身も心も身軽になった実感が湧いた。
 同時に、その軽さと引き換えに失ったモノの大きさも、思い知ったけれど。

「…バイバイ、ジギー」

 思わずもれたその声に滲んだ震えと、あふれそうになった何かを耐える様に上を向き、どこへ向かうとも決めていない未来(さき)へと僕は歩き始めた。



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