Wish
act 9(ジギー視点)
嫌な予感は感じていた。
別れ際、妙な胸騒ぎに駆られて、その人の腕を無意識に掴んでしまったくらいに。
俺の主人であり、たぶん恋人…だと思っているラルゴ・ロイドを出張先に向かう駅前まで送り届け、その足で彼に頼まれた届け物を届けるべくドクター・サンダーランド・ジュニアが居る大学の研究室へ向かった。
ドクターの研究室にはロイド様の薬をもらうために三か月に一度、そして発作の頻度や体調などの経過報告を一か月に一度、必ず訪ねている。
先日呼び出した際、しばらくは泊まりがけで実験している…と言っていたから、朝のこの時間なら多分ドクターは研究室の長椅子でまだ寝ているはずだ。
「ドクター?」
控えめに研究室のドアをノックして開けると、いつものように閉められた形跡のない開け放たれたカーテンの下、朝日にサンサンと照らされた長椅子の上で毛布にくるまった人型がゴソリ…と蠢いた。
研究室の中は人が一人通れるくらいの隙間道を残して、積み上げられた本や資料の紙束、様々な実験道具で埋め尽くされている。
それらを崩してしまわない様に用心深く歩いて、長椅子の人型毛布の所まで辿り着いた。
「ドクター!起きてください!ロイド様から封書を預かってきました」
毛布を揺すりながらそう言うと、「うーー…」という呻き声と共にミノムシのごとく毛布にくるまったまま、ドクターの隻眼がこちらを見返した。
「…なんだ…ジギーか。なんだって?」
「ロイド様から届け物です。なんでも大事なモノなので必ず中身を確認してもらってくれ…と」
「ロイドから…?あぁ、ひょっとしてあれかな?」
目覚めは良いドクターがもそもそと毛布から脱皮して起き上がり、大きく伸びをしながら長椅子の上に座りなおした。
白衣は脱いで長椅子の背もたれに引っ掛けてあるが、寝起きだけにいつもピシッとしているワイシャツの襟元はさすがに肌蹴てダラリ…とほどけかけのネクタイがかろうじて引っかかっている。
「やぁ、いつも悪いね。じゃ、さっそく」
まだ若い頃、研究中の事故で失ったという右目を覆う眼帯と隻眼は、ドクターのトレードマークだ。
隻眼になって長いせいもあり、ドクターの指は迷いもなく正確に封書の封を切った。
「ん…?なんだ?ロイドからのメモか…?」
封書から取り出した厚めの書類の束の上に、薄い封書と二つ折りにした走り書きらしきメモが載っていた。
メモを開いたドクターの隻眼が一瞬細くなり、次の瞬間大きくなった。
「はあ!?」
叫んだドクターが慌てたように厚めの書類に書かれた文面を見つめ、それを掴んでいる箇所が歪むほど指先に力が込められていく。
「…あの、バカ野郎が!」
叫んだドクターが、手にしていた書類の束をバサッ!と長椅子の上に叩き付け、次に薄い封書を開封して中に入っていた数枚の書類の内容を読み取った。
「ジギー!」
怒りを含んだ声音で名前を呼ばれ、その一連の所作を唖然とした面持ちで見つめていた俺は、思わず一歩後ずさった。
「は、はい、」
「これはお前宛てだそうだ!」
そう言って、手にしていた数枚の書類を俺の方へ突き出した。
「俺!?」
「ああ、そうだ。ロイドが10年くらい前から鍵付きの引き出しに入れてたもの。お前も知ってるだろう!?」
「あ!はい、知ってます。あの中に入っていたもの…ですか?」
ロイド様がまだ学生だった頃、屋敷に届いたその書類入りの封書を俺が手渡した。
机越しにそれを受け取ったロイド様は封を開けて中身を確認し、寂しそうな笑みを浮かべてしばらくそれをジッと見つめていた。
何だかいつもと違うその雰囲気に、「何の書類ですか?」と問いかけたら、しばらく思案気に瞳を揺らして泣き笑いのような曖昧な笑み浮かべ、「…秘密」と言って、あの鍵付きの引き出しの中にそれをしまった。
「…見たかったら、開けて見ていいよ?鍵はここにあるから」
そう言って、壁にあった年代物のボードにその引き出しの鍵を引っ掛けた。
あんな風に笑うロイド様は見たことがなくて、正直、何度もその鍵を手に取って引き出しの前に立った。
だけど、どうしても開けることが出来なかった…あの中に入っていた、あの書類…!
突き出された書類を手にとって、食い入るようにして文面を読んだ。
「…っ!これ…!?」
書かれていた内容に息を呑み、ドクターを見返すと「全部見ろ!」と数枚あった書類全部を見るように促された。
書類をめくりその先の内容を読んで、思わずグシャリ…ッと書類の端を握り込んだ。
書かれていた内容は、俺が居る教会の土地と建物の権利書、そして詐欺にあい、騙されて背負わされた借金全ての完済を証明したものだった。
「なん…ですか、これ?どうしてこれをロイド様が…!?」
訳が分からなくて縋るようにドクターを見た。
「つまり、教会の債権と借金は10年も前にロイドが買い取ってチャラにしてたってことだ。君を借金から解放してやりたくてな」
「そんな…!でも、だったらなぜ、俺に言ってくれなかったんですか…!?」
「元々君は借金返済のためにロイドの所で働くことになったんだろう?借金がなくなったと言えば、君を手放すことになる。だから言えなかったんだ」
言い放たれた言葉に、あの時のロイド様の泣き笑いのような曖昧な笑みがよみがえった。
あの笑みにそんな意味があったなんて…!
いや、今気にしなければいけないのはそんなことじゃなく!
「ちょっと…待ってください。その書類を俺に渡したってことは…?どういうことなんです?」
「…自分を縛っていたもの全部を捨てて、君を自由にしたってことだ」
「縛る?全部捨てて?俺を自由に?は…?意味がよく…」
「こっちも見れば理解できるか?」
そう言って、さっきドクターが長椅子の上に叩きつけた厚めの書類を俺に差し出した。
「?これって…?」
「ロイドの屋敷の権利書と、その屋敷を俺に譲るという譲渡証明書だ」
「は…ぃ?」
本気で意味が分からなくなった。
あの屋敷をドクターに譲る?
譲るってなんだ?
つまり、あの屋敷を人手に…ドクターに渡す…ってこと…?
あの屋敷がもう、ロイド様のものではなくなる…ということ…?
「っ、どういうことですか!?どうしてあなたに!?」
思わず、ドクターのはだけたシャツの襟を掴んで詰め寄っていた。
「ちょ…っ!落ち着け!ジギー!分からなければ説明する!」
「じゃあ、ちゃんと説明してください!俺が分かる様に…!!」
もともと頭のいいドクターは、往々にして自分が理解していれば他人も理解している…的考え方で、途中の説明なんかをすっ飛ばす癖がある。
それを今の俺に適用されたって、理解できるはずがない。
俺は掴んでいた襟元から手を放し、「はぁ…」と安堵のため息を吐いたドクターを見据えた。
「まず、ジギー、君には一か月ごとにロイドの体調や発作の頻度の報告をしてもらっていたろう?そのことで君自身、何か気が付かなかったか?」
「経過報告で、ですか?いえ…特には…」
「そうか…君も気が付いてなかったのか…」
ドクターの隻眼が俺の視線から反らされ、その先の言葉を話すことに迷いのあるそぶりを見せた。
「ッ、ドクター!お願いですから全部話してください!」
言い募ると、寝癖のついた髪をぐしゃぐしゃとかき回し、再び俺と視線を合わせた。
「ここから先話すことは俺の専門外になるから、憶測でしかない。だが、その可能性が高いという事を念頭に置いていてくれ。いいな?」
用心深く念を押され、いいから早く話してくれ!と頷き返した。
「ロイドの病気は、もうかなり前から身体的には問題ないほど回復している。にもかかわらず発作は続いた。それが俺にはどうしても腑に落ちなくて君に経過報告を依頼したんだ。結果、ロイドの発作にはそれを誘発する要因が二つあることに気が付いた」
「発作の要因…?」
「そう、ジギー、君はロイドが学生時代、学校内で発作を起こしたと聞いた記憶があるかい?」
「学校で…ですか?…いえ、確かなかったと…」
「では、仕事を始めてから、会社に居る時は?」
「会社で…?いえ、それも確かなかったと…」
「では、ロイドが発作を起こしたのは、どこで、だった?」
「え…どこって…屋敷の中…」
言いかけて、言いようのない不安感に襲われた。
心臓の鼓動が早まる…なんだ…これ…?
「そう、ロイドの発作は必ず屋敷内に居る時に起こっている。これが第一の要因。そして二つ目…君は、君が居ない場所でロイドが発作を起こしたと聞いたことがあるかい?」
「俺が…居ない場所で…?」
その言葉に更に心臓の動悸が激しくなる。
おかしい…どうして、こんな…。
「記憶にないだろう?発作は必ず君が居る時に起こっている。二つ目の要因…それはジギー、君自身だ」
「な…!」
息を呑んだ。
でも、そのドクターの憶測を否定する言葉が出てこない。
出るはずがない…だって、俺は…。
「ロイドには、以前から発作の要因は心因性によるものだと伝えていた。その要因の一つが屋敷だろうという事もね。ロイドにとってあの屋敷は、幼い頃発作が出て苦しい思い出ばかりがある場所だ。その記憶が消えない限り発作はなくならない。だが屋敷の外でなら発作は起きない。だからロイドは屋敷を俺に譲る気になったんだろう」
え…伝えたのは一つ目の要因だけ…?
「待って下さい、二つ目の要因…俺のことは…?」
「言ってない。というか、言う前にロイドに先を越されたから言う必要がなかった…というべきか」
「先を越された…って?」
「ロイドが言ったんだ。ひょっとしたら、自分はジギーを失いたくなくて発作を誘発しているのかもしれない…と」
「え…」
「自分が発作を起こせばジギーが心配する。心配でずっと自分の側にいてくれる…そうなればいいと心のどこかで思っているのかもしれない…と」
「あ…っ、」
思わず顔が歪んだ。
立っていられなくて両膝をつき、その上で拳を握りしめた。
「違う…!それは…そう思っていたのは俺の方だ…!」
そうだ…俺はロイド様の病状が良くなるにつれ、不安が大きくなっていた。
いつか元気になって、もう俺の事なんて必要ないと言われる日が来るんじゃないか…と。
仕事勤めが始まると、屋敷の中に居る時間が極端に少なくなり、一緒に居ることの出来る時間も減ってしまった。
それにどうしても我慢できなくなって、会社まで迎えに行くことを強引に約束し、実行したりもした。
なんとかしてあの人が屋敷にいる時間を増やしたかった。
どうすればあの人をあの屋敷に閉じこめておけるだろうか…と、そんなことばかり考えて、俺は…!
「…自覚はあったわけか。ったく、こういうことは当事者同士のデリケートな問題だから口出ししなかったんだが…今回ばかりは裏目に出たかもしれん」
ため息と共に落とされたドクターの言葉に、「え?」と顔を上げた。
俺と視線を合わせたドクターが、隻眼を気難しそうに細めて思案気に呟いた。
「ロイドが何か企んでいるのには気が付いていたんだが、何をしようとしているのかまでは分からなかった。もし今回のこの事がその一端だったとしたら…」
そこまで言って思案する様に言葉を切ったドクターに、俺は嫌な予感を感じて急き立てた。
「だったとしたら、なんなんです!?」
「…あいつはもう、帰ってこないかもしれない」
「え…!?」
帰ってこない…?
ロイド様が…?
先ほどの別れ際に感じた嫌な予感が駆け抜ける。
行かせてはいけない…!なぜか不意にそう感じて…!
「そんな、まさか…」
「いや、あの屋敷は名義こそロイドだが、実質父親の許可がなければ人に譲れるものではないんだ。更に言えば父親の持つ力を削がない限り、ロイドはあの屋敷から出ていくことさえ叶わない」
「どういうことですか!?」
「ロイドは、母親の遺言であの屋敷と母親の姓であるロイドの名前を継がされた。ロイド家は元は名家だから父親としてもその名前の威光は残したいらしくてな、ロイドが勝手に屋敷から出て行ったり誰かに売ったりすることを承知しないのさ」
「なんなんですか、それ…!」
そんな話は初めて聞いた。
ひょっとして…子供一人に対して大袈裟すぎるほど居た使用人も、その名家の威光とやらを示すためだったのだろうか?
ロイド様の病気を思って…なんかじゃなく。
「それを一番身に沁みて知っているのはロイド自身だ。なのに俺に屋敷を譲渡するってことは、父親絡みで何かやらかす気なんじゃないか…と思ってね」
「何かって…なにを?」
「そうだな…あいつが大人しく父親の会社に入ったってことから考えれば、会社の金絡みの官僚との贈収賄の暴露…ってとこか。前にロレンス検事のことを聞いてきたことがあったからな」
「ロレンス検事…?」
「検察庁の死神と言われる全身黒づくめの男さ。ロイドの父親絡みの訴訟で何度も煮え湯を呑まされてる」
「死神…?全身黒づくめ…?」
その言葉に、ふと昨日の海浜公園でのことが頭をよぎった。
ロイド様と何か話をしていたようだった…あの、遠目からでも印象的だった人物。
「ドクター、ひょっとしてその人、長い黒髪に黒い帽子とコートを着てたりします…?」
「なんだ、知ってるのか?そいつだよ、死神みたいな恰好だったろう?」
俺は思わず立ち上がり、ドクターに言い募った。
「それ…!昨日その人とロイド様が話をしているのを見ました…!」
「なに!?…とすると、当たりの可能性が高いな。ロイドの秘書のアリア・リンクは知っているな?」
「はい、毎朝屋敷までロイド様を迎えに来ますので…」
「彼女と連絡を取ってこの事を伝えろ。ロイドが今どこにいるか、それも一緒に調べてもらえ!」
「はい!」
俺は転がるように研究室を走り出て、バイクを発進させた。
ロイド様が勤める会社まで行き、アリア秘書を呼び出してもらうと「ちょっと付き合ってくれる?」と、話をする暇もなく外へと引っ張り出され、近くの喫茶店へと連行された。
「どこに行ったの!?」
開口一番そう聞かれて面食らった。
「え?」
「ロイド専務よ!今日の出張、ガラード常務に勝手にすり替えられてたの!」
「はぃ?」
「だから、彼が行くはずだった出張は、無しになってるの!どこへ行ったか知らない!?さっきから携帯も全然繋がらなくて、訳が分からないの!」
「出張が無しになってる!?」
やっぱり…!
どうしてあの時掴んだ腕を放してしまったのか…!と、悔しさに奥歯を噛んだ。
「今朝はジギーが送っていったんでしょう?ちゃんと駅まで送ったの?」
「実はそのことで話があって来たんです…!」
俺はさっきドクターから聞かされた話を、アリア秘書に打ち明けた。
「…あり得ない話じゃないわね」
冷静に俺の話を聞き終わったアリア秘書が、真剣な表情で俺を見据えた。
「ロイド専務の仕事振りは異常だったもの。あちこちに子会社を作ったり、提携や買収、資産の売却…一つだった会社の柱を分散させて、それぞれの独自経営も認めたり。もしそれが立て直しの為じゃなく、会社が経営の危機に陥った場合の下準備と社員の受け皿作りだったとしたら、納得がいくわ」
「じゃあ、やっぱり?」
「ええ。私もドクターの見解は正しいと思う。そうでなければ、会社の専務ともあろう人が、連絡が全く取れない、行き先も皆目分からない…なんて言う状況になってるはずがないもの」
アリア秘書のその言葉に息を呑んだ。
この人に聞けば足取りくらいは掴めるかと期待していたのに…!
「行き先、全く分からないんですか!?」
「まさか出張がすり替わってるなんて思わなかったから、確認が遅れちゃって…。さっき気が付いて慌てて携帯のGPSを追ったんだけど、全く反応なし。もちろん電話もね」
落胆して視線が落ちた。
視界に入った、テーブルの上で握りしめた指…その感覚がだんだんなくなっていく。
どうやって探せばいい?
いったいどこへ…!?
「…でも」
不意に聞こえた思案気な声に、ハッと顔を上げた。
「でも?なんですか?」
「ひょっとしたら何か知ってるんじゃないか?っていう人が一人居るの」
「誰です!?」
「ピンクエレファントの店長…あの人、絶対怪しいわ」
「ピンクエレファント…!?」
「移動ハンバーガー販売車なんだけど、うちのビル前広場に来たら必ずロイド専務が買いに行くの。しかもなんか妙に親しげにいつも話してるし…ロイド専務があんな風に人と話すのって、私、ジギー以外で見たことないから」
「っ、そいつ、どんな奴なんですか!?」
思わず感情むき出しに身を乗り出して言い募ってしまい、ハッと我に返った。
「…気になるんだ?」
意味ありげに微笑まれ、カ…ッと顔が一気に熱くなる。
「あ、当たり前です!その人が何か知ってたら…!」
「それだけ?」
「それだけです!他に何が…!」
「ジギーって、素直じゃないわよね。前から一度言っておこうと思ってたんだけど、ロイド専務って自分の価値が全然分かってない人だから、ジギーがちゃんと言ってあげないと!」
「言う…って、なにを…?」
「一番大事で、好きなんだってこと」
「な…、」
にっこりと邪気もなく微笑んで言われると、返す言葉が見つからない。
「まだ言ってないんでしょ?言わないと伝わらないわよ?」
畳みかけるように言われ、思わず考え込んだ。
俺は、そういう自分の気持ちを口に出して言ったことがあっただろうか?
あの、物置での一件以来、俺の中で「好き」と言う言葉は禁忌に近いものになった。
その言葉を言えばロイド様があの時のことを思いだしてしまうかもしれない…という危機感があったからだ。
でも、ロイド様が物置でのことを思い出して、一気にいろんなことがあって…。
改めて思い出してみると、結局俺は自分の口から直接「好き」だとかそういう類の言葉を言っていないことに気がついた。
言ってくれたのはロイド様のほう。
俺がなかなか口に出来ないと知っているあの人は、俺のためにその言葉を口に出し、「大丈夫だから」と言った。
あれは俺が一人で悩まないように…とロイド様は言ったけれど、本当にそうだったのだろうか?
ひょっとして、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあったんじゃないのか?
こんな風に姿を消すことを決めていたから、あの時、俺を試す様に誘いをかけてきたんじゃないのか?
俺に、「好き」だという事を自覚させるために。
自分勝手な都合のいい解釈かもしれない。
でもあの人は、強そうに見えてとても脆くて弱いところがある。
自分を縛っていたもの全てを捨てるということは、一人きりになるという事だ。
そうなった時のことを考えて、あの人なら何か保険をかけていそうな気がする…無意識にでも。
そんなことを考えていたら、ふと、思い出した言葉があった。
「…あのバイク…」
思わず呟いてしまったその言葉を聞き逃さずに、アリア秘書が問いかけてくる。
「バイク?」
「あぁ…いえ、前にロイド様に言われたことを思い出して…」
「なに?」
「自分に何かあった時すぐに駆けつけられるように…と、そうロイド様が言ってあのバイクを俺にくれたんです。俺にバイクを受け取らせるための口実だと思ってましたが、ひょっとして…」
「それはまた、あからさまな保険ね」
事もなげに肩をすくめて自分が考えていた事と同じことを言われ、やっぱりそうなのか?と視線でアリア秘書に問いかけてしまう。
「だって、追いかけてこいっていう意味以外の何物でもないじゃない!」
「…ですよね」
苦笑交じりにそう言うと、不意にアリア秘書が真剣な顔つきになって言った。
「見つけてあげて、ジギー。多分それがロイド専務の願いだわ。で、見つけたらちゃんとあなたの気持ちも言ってあげなさいね」
「…努力します。とりあえず今はそのピンクエレファントを探す事…が、ロイド様を見つける手段ですか?」
「そうね。ど派手なピンク色の車体だから探しやすいはずよ。お願いしていいかしら?」
「分かりました。見つけたら連絡します」
「よろしくね!」
お互いの連絡先を交換し、見つけたヒントを手に入れるべく俺は再びバイクを疾走させた。
結局その日はピンクエレファントを見つけることが出来ないまま教会へ戻ると、神父様からロイド様が来たことを知らされ、渡されたという通帳を受け取らされた。
10年ほど前から貯められたその額はとんでもない金額になっていて、俺は驚いて受け取れない!と言い募った。
けれど。
「ジギー、もう君もここを出なければいけない年齢だ。君を縛っていたものは全部ロイドさんが剥がしていった…それを忘れずこれからここを出てどうすべきか考えなさい。そのためにもこのお金は必要です、受け取りなさい」
そう言い放たれて絶句した。
縛られているとは思っていなかった。
だけど、いざ出ていけと言われてみて初めて、縛られていたというより縋っていた事に気が付いた。
帰れる場所があること…ただそれだけでどれだけの安心感があったのか、という事に。
そして、自らその帰れる場所を断ち切ったロイド様が、今、どれだけの不安と孤独を抱えているのだろうか…という事にも。
次の日、早朝からドクターが予想した通りの騒動が報道され、アリア秘書からの連絡でロイド様が父親ともども会社をクビになったことが知らされた。
会社はガラード常務という人が臨時の代表になって、これまで通り業務が引き継がれ経営続行されることが決まったらしかった。
そして屋敷の方には、ロイド様が言っていた通りハウスクリーニングがやってきていた。
ロイド様の部屋の中にあるものを全部処分するよう依頼されている…と知って、慌ててドクターに連絡を取りその部屋はそのままの状態で残しておいてくれるよう頼み込んだ。
ドクターも「当然だ!譲ると言っても俺は預かっただけのつもりだからな。いつでも帰って来いとロイドに伝えておけ!」と言ってくれた。
ピンクエレファントはといえば、昨日はあれだけ探し回っても見つからなかったというのに、会社のことが報道された途端オフィスビル街に出没した。
強制捜査が行われ、どこか騒然とした雰囲気の漂う官庁街の一角で見つけた、そのど派手なピンク色の車体の前で俺はバイクを停め、近寄った。
「いらっしゃい。君、ジギー君、だよね?」
俺の姿を見た途端、販売用に改造されたカウンター越しにその男が声をかけてきた。
「!?どうして、俺の名前を…?」
「あ、俺、エミューね。よろしく」
俺の質問をまるきり無視した男…エミューが名乗って、ハンバーガー用と思われるパテを焼き始めた。
「悪いけど、あの人の行先は知らないよ?っていうか、あの人、何も考えてなかったみたいだから、きっと本人もどこへ行くかわかってないね」
あの人…というのがロイド様のことだとすぐに分かった。
名前を出さないのは、今までと同じくこれからも親しく名前を呼ぶような付き合いではない…と、そんな風な事を暗に示している様に感じられた。
飄々とした、まるで人の意を解さない独特な雰囲気に気勢を削がれた。
「でも、まぁ…とりあえず、あの人のことだからあちこち放浪してるんじゃないかな?」
「放浪…!?」
思わず問い返すと、エミューがにや…と口の端を上げ、パテをひっくり返すフライ返しでヒョイと俺を指し示した。
「そ。とりあえずはさ、ジギー君、君が行ってみたいと思う場所へ行ってみたらいいんじゃないかな?」
「俺が行きたい場所…!?」
「ジギー君はさ、あの人とどこかへ行きたいって思ったこと、なかった?」
「え…」
「あったよねぇ?」
意味深な笑みでそう言われ、ちょっとムッとした。
そんな事をあんたみたいな奴に詮索される筋合いはない…!という意味合いで睨み付けると、「うわ、こわ!」と肩をすくめて焼き上がったパテをバンズに挟んでバーガーの仕上げに取り掛かった。
「まぁ、しばらくはあの人の行方は分からない方がいい。汚職絡みでの報復もありうるからね。俺も必要に迫られない限り探す気はないし、探し当てたとしてもどこから漏れるかわからないから誰にも教える気はない」
報復…その言葉にハッとした。
そうだ…今回の汚職事件発覚は、大物政治家が数人関わりその進退にまで影響が及ぶだろうとニュースで言っていた。
そんな相手が報復に出たとしたら…考えただけでゾッとする。
「…なんだけど、もし、あの人の方から連絡があったら…話は別」
続けられた言葉に、え!?と目を見開いた。
「その場合、それはあの人が望んで連絡をしてきたと判断できるからね。どのあたりに居るかくらいは教えてやれる」
「っ!本当ですか!?」
迫る様に問い質すと同時に、目の前に出来立てのハンバーガーが入った容器が突き出された。
「餞別にあげる。何かあの人から連絡があったら、君の携帯にメールしてあげるよ」
「え?あり…がとうございます。でも、俺の携帯メールどこで…!?」
くれるというものを無下にも出来ず受け取って、不審げに問いかけると、にやり…と不遜な笑みがエミューの口の端に浮かんだ。
「他人の個人情報を盗み見するのが俺の本職。あ、でもこれ、あの人の情報が知りたかったら内緒にしておくこと!」
返ってきた答えに一瞬唖然…としながら、ロイド様との繋がりがはっきりと分かって安堵のような溜息がもれた。
「分かりました」
小さく会釈を返して感謝の意を表し、再びバイクにまたがった。
「気長な追いかけっこになりそうだけど、ま、頑張って」
背後から聞こえてきたそんな言葉に、言いえて妙だ…と苦笑しつつ後ろ手に軽く手を振って、あの人とどこかへ行くとしたらどこへ行くだろう?と考えつつエンジンの爆音を響かせた。
それから俺は、どこへ行ったともわからないロイド様の後を追って、いつ終わるともしれない放浪の旅に出た。
最初の一ヶ月くらいは大丈夫だった。
でも、二ケ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎるころになると…不安の方が大きくなっていった。
行方を追う手がかりともいうべきものが、全く見つからない。
エミューからのメールもない…ということは、ロイド様の方から連絡がない…ということ。
それはつまり、もう俺たちの事なんてどうでもいいと、そういうことなんだろうか?
こうして俺が探すことは、何の意味もないんじゃないだろうか?
ただ単にあの人は、自分を縛る要因でもあった俺を気切り捨てただけであって、そこに特別な感情なんてなかったんじゃないか?
俺は…あの人にとってどうでもいい存在だったんじゃないか?
頭の中をそんなマイナス思考の事ばかりがグルグルと回り始めると、それは止める術もなく俺の中で大きく膨れ上がっていった。
何度となく、もうこんな先の見えない追いかけっこなんて止めてしまおう…と思った。
だけど、止めたところでその先にすら何もないことに気が付いて、更に絶望的な思いに囚われた。
結局俺は、あの人のこと以外考えられなくて、ただその痕跡を探すことだけしか出来ないのだと思い直す…そんなことを延々と繰り返し、半年ほど過ぎた頃だった。
不意に携帯にメール着信を知らせる着信音が流れた。
相手は登録していないメールアドレスで、ひょっとして!?と、急くようにメールを開けた。
予感が当たり、それはエミューからの約束のメールだった。
添付されていた地図に示された場所に驚いた。
そこは今自分が居る場所からそう離れていない、山の中。
その偶然に、マイナス思考で埋め尽くされた心の中に、少しだけ明るい光が見えた気がした。
今から向かえば夕方までには辿り着ける…!
バイクを急反転し、その場所へ向けてエンジン全開で走りだした。
-10- or top